2003 12/31

狂  気




 闇の中にそびえ立つ宮殿は難攻不落の要塞のようだ。雪まじりの風が横殴りに吹きつける。
 拳を握りしめ指輪を胸に押し当てる。私に勇気を…


 手紙のやり取りができるだけでもありがたいと思う。だが用心に用心を強いる秘密書簡はもどかく、毎回隔てられた距離を確認させられた。
 時として絶望さえ感じる。あの人は不安で心細く混乱している。だが手紙の主旨が何であろうとすべてはあの6月20日に帰結する。あの時の失敗が今あの人をこのような状況に陥れたのだ。


 偽造旅券を持ち外交上の使命と偽り将校の下僕になりすましパリに向った。もはや生きて帰れるとは思ってはいない。
 王宮に向う前、ヴェルサイユに立ち寄った。
 私はフランスに生涯最高の友を持っていた。私もあの人も彼女に甘え負担ばかりかけてきた。そして今また願い事をする為にそこに向うのだ。友はもういない。それでいながら私は彼女の父の将軍に頼みごとをするのだ。彼は約束してくれた。毅然とした将軍の物言いに彼女の面影を見た。

 館に背を向け雪に打たれながら友に問うた。

 オスカル、おまえはどうして革命に身を捧げたのだ。
 あの人をこれほど追い詰める革命に…

 天を見上げ吹雪く雪の中に彼女の姿を探した。

 オスカル、きっとおまえは自分で信じる道を選び取ったのだ。
 幸せだったか、おまえの人生は…



 パリの街のあちこちに自分の人相書きが貼られてあった。多分これと同じ物が多くの人の手に渡っているに違いない。この首にかけられている賞金額を知らない訳ではない。だがそれらは勇気を鼓舞するものでしかなかった。
 風に煽られ破れた紙切れが言う。あの人を護れるのはおまえだけ…

 目指す宮殿は闇の中に沈んでいた。それを見ながら胸の動悸を鎮めた。
 慎重に… 国民軍が昼夜見張りに立っている。見知った宮殿内の人物に変装は効かないだろう。
 警戒の間隙をつき目指す入り口にたどり着いた。合鍵が使えた。そっと押し開いた扉の隙間に人影は見えなかった。扉の内側に体を滑り込ませる。宮殿内はひっそりとしていた。かつて訪れたときより一段と寂れている。忍びの者にとっては好都合だがそれは今のあの人の境遇を語っていた。彼らはもはや国王であって国王ではなかった。見捨てられた者なのだ。
 廊下の端に兵士の靴音が聞こえた。こちらにやってくる。とっさに柱の陰に身を隠したが隠れる場所はない。
 懐に忍ばせた短剣を握りしめる。これ以上近づくなと唱えながら剣の柄に力を込めた。故郷(くに)を棄てた。友を亡くした。今自分にあるのは狂気のみ。悪魔に魂を売ってでも手に入れたいものがある。ここで見つかる訳にはいかない。あの人を救い出せなくなる。
 人を殺めるのは一瞬だった。声もたてず足元に崩れ落ちる兵士。私は死体を引きずって柱の陰に隠した。もう後には引けない。引くつもりもない。愛に囚われ人はここまで狂うのだ。

 
 王妃の部屋の扉に手をかけた。何度も訪れたことのある懐かしい部屋。鍵はかかっていなかった。扉を押し開く。開かれた瞬間懐かしい香りが胸に流れ込んできた。。
 私の姿を見て彼女は驚きの声を上げた。私の憧れ、愛してやまないフランス王国の女王陛下。私は真っ直ぐ彼女に歩み寄り力一杯抱きしめた。この一瞬の為にここまで来た。
 彼女は目に涙を溢れさせ、なぜ来たのだと私をなじった。
 震える唇に口付けた。何もいらない。今ここで命がつきても後悔はない。
 細い指が私の両手を握り締めた。彼女は私の手を胸に導き暖めてくれた。
「何と冷たい」
 小さな声だった。俯く顔は雪のように白かった。

 優しい指は私の指輪に気がついた。不思議なものでも見るように彼女はそれを見つめていた。私は懐から用意してきた指輪を取り出した。フランス王妃をフェルゼン家の花嫁に… 私は彼女の手を取り細い指にそれをはめた。
 ――いっさいが御身が元に導く――
 掘り込まれた文字に愛する人は口づけた。

 彼女は扉に歩み寄り開いた隙間から確かめるように廊下に目をやった。そして鍵をかけた。
「フェルゼン、今夜はここにとどまってください。国王陛下には明日お会いになって…」


 風が窓をたたく。雪混じりの風の音はすすり泣くようだ。王妃の寝台は風に晒していたかと思うほど冷たかった。
 指を絡ませ指輪を見つめながら今度生まれてきたら添い遂げようと約束した。
「フェルゼン、貴方がいたから私は生きられた。生きてこられた…」
 繰り返すささやきが熱い吐息に変る。
 憧れの王妃は一人の女になった。

 腕の中の女の髪を撫でながら蝋燭に照らされる懐かしい顔を飽くことなく眺めた。6月20日の夜からどれほど恐ろしい思いをさせただろう。だが腕の中の女は至福の表情をしていた。
 腕に力を込め抱きしめる。長い間の想いをこの一夜にかけた。神は願いを聞き届けてくれた。願わくばもう一つの願いも聞き届けて欲しい。この人と家族を無事国外に逃がして欲しい。
 ほんのりと血の気の帯びた頬に口づける。安心したように眠る愛らしい人。夜が明ければ新たな日が始まる。暗い窓から吹きつける雪が見えた。このまま永久に夜が明けなければいい。
「フェルゼン」
 眠っていたと思っていた人が目を開けた。白い手が頬に触れる。優しい夜はまだ明けない。
 風が吹く。雪が狂う。
 私はもう一度彼女に口づけた。


 
 次の日の夜、国王陛下にお会いした。逃亡計画はスウェーデン国王と共に練り上げた。自信がある。だが国王陛下はそれを受けてはくれなかった。
 パリから逃げない。国民との約束を果たす事が国王の努めだと彼は言った。彼だけではなかった。あの人も女王として生きる道を選んだ。昨夜、女として私の腕の中で愛していると伝えてくれた人が、生きる道より死を選ぶという。全身に戦慄が走った。何を予感するというのか… 王子を王女はどうなさるおつもりですか。言おうとして言えなかった。あまりにも残酷すぎる。

 貴女は宮殿の入り口まで送ってくれた。
 立派な女王として死を待ちます。そう言いきる顔は美しかった。誇り高い貴女を愛した。眩しく輝くフランス王妃を愛した。
 貴女の中に恋する女の一途さはないのか。何もかも捨て一緒に逃げることはできないのか。愛し愛される定めに生まれてきたのに…
 貴女は私の胸に顔をつけて泣いた。
 愛している、愛している、貴女は声を出さずにそう叫んでいた。
 この手を離したらもう永久に取り戻す事はできないのではないか。恐ろしい予感が背中を走る。刻一刻と時が過ぎる。離したくない。
 廊下に靴音が響いた。
「早く行って、フェルゼン」
 貴女が私の背中を押した。私は彼女に背を向けた。振り返った一瞬、彼女が廊下に崩れ落ちるのが見えた。泣いていた。だが私は無情にも廊下を走った。ここで捕まるわけにはいかない。あの人の前で捕まる訳にはいかなかった。私が引きずられ、打たれ、死んだら、あの人は悲しむだろう。


 外は雪が積もり風がそれを吹き上げていた。闇に紛れ道を走った。昨夜のうちに積もった雪が道を明るく見せていた。
 廊下にうずくまったあの人の姿が目に焼きついていた。石壁を背に空を仰いだ。暗い闇夜から雪が生まれてくる。石壁に向き直り拳を打ちつけた。
 自分には何の力もない! 命より大事なあの人を護ることもできない! 石に爪を這わせ掻きむしってもあの人の痛みに及ばない。
 私は雪の中に膝をついた。どうしたらいい。一体どうすれば… 雪を掴み力一杯握りしめた。指輪が目に入った。あの人の細い指が何度もそれを辿った。
 そうだ、もう一度やるのだ。今度こそ…! あの人だけでも連れ出すのだ。騙してでも連れ出してやる。
 手からこぼれ落ちる雪に血が混じっていた。きっと自分は狂っているのかもしれない。空を見て笑った。それもいい。狂人だったら何でもできる。別れる刹那に襲った絶望。それと向かい合うくらいなら何だってやってみせよう。もう一度あの人に会うのだ。今自分を支えるのはその希望のみ。一縷の望みに託すのだ。もしそれがかなわぬのなら… 呪われるがいい、私の人生…
 私は雪を地面に叩きつけ立ち上がった。

 雪は狂ったように吹き荒れていた。



























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