2004 12/25
イラスト 市川笙子さま
文 マリ子

仮面舞踏会の夜




作中のエベーラは
「ベルサイユのばら外伝」(月刊Jam掲載、中公愛蔵版収録)
の第四話「悪魔の薬」に出てくる登場人物です。
設定としては「悪魔の薬」事件後のノエルになります。




「アンドレ、この差出人に見覚えがあるか?」
 オスカルは一通の封書を差し出した。仮面舞踏会の招待状だった。差出人はマジュエル伯爵。品のない濃い色合いの封書は、貴族の館で開かれる舞踏会の招待状というよりは、女優が差し出す劇場への招待状といった体裁だった。
 アンドレは中身を一読するとオスカルにそれを手渡した。こんな招待状はいくらでも来るが、名前に見覚えは無かった。場所もベルサイユのずっと北方の街になっている。一日で行ける距離ではない。内容はごくありふれたものだが、開催の日付が12月25日になっていた。
「オスカル、お前はどうなんだ。この名に覚えはないのか?」
「ああ、聞いたことはあるような気がするが‥思い出せない。それより見ろ、アンドレ、何か感じないか?」
 オスカルは招待状を広げ、彼の前に差し出した。アンドレはそれを手に取ったが、変わったところを見つけることが出来なかった。何の変哲もない招待状だった。12月25日、ある伯爵家で仮面舞踏会が催される。ミサを済ませてくるように書いてあり、変装用の仮面と衣装を用意するようにとも書いてあった。
「聖なる夜に仮面舞踏会か。嫌なら断ればいいじゃないか」
 彼は招待状をオスカルに差し出した。オスカルは分かってないと言うようにアンドレに詰め寄った。
「いいか、ここを見ろ。『東洋から取り寄せた薬草の香りが貴方を心地よく酔わせます。ノエルの夜に新しい出会いを…』どうだ? 何か思い出さないか?」
「別に、よくある文言だ」
 気楽そうなアンドレにオスカルは声を潜めて言った。
「エベーラの薬を思い出した。あれも東洋の草が原料だった」
 数年前、ベルサイユにエベーラという魔女が現れ、人々を狂気に追いやり、街中を混乱に陥れた。彼女の薬を吸い込んだり、飲んだりした者達は、その力から抜け出せなくなり、快楽を貪った後、皆一様に狂っていった。病を直す目的で使った者も、一時の快癒のあと、より病が悪化し死んでいった。
 不思議な力を誇示し、妖術を操る女の正体は、東洋から持ち込んだという薬草の使い手だった。その魔女もオスカルに撃ち殺された。
「考えすぎじゃないのか?」
「勿論、エベーラが生きているとは考えていない。だが、あの薬を使う者が他にいないとは限らない」
 深刻そうなオスカルの顔にアンドレは笑いかけた。
「それなら、お前に招待状など出すものか。エベーラの薬と同じくらい、魔女を退治した勇猛果敢な近衛連隊長の名は有名だ。薬草使いだって捕まりたくはないだろう」
「それに‥ 宛名も気になる」
 オスカルは金の押し模様の入った封書を手に取り、見入った。
「オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ夫妻になっている」
「同伴が条件らしいな。大体の趣向は分かるが‥」
 アンドレは鼻先で笑ったが、オスカルは眉間に皺を寄せたままだった。
「私を知らないで招待しているのだろうか。それとも‥ 挑戦‥?」
 オスカルの独り言をアンドレが遮った。
「考え過ぎさ。東洋の薬草にも色々ある。仮面舞踏会にバーブを焚くのはよくやることさ。俺には田舎貴族が見栄を張っているようにしか見えないが」
「お前は楽観すぎる」
 オスカルの目に非難がこもるの感じながら、アンドレは封を取り上げた。
「せっかくの静かなノエルを潰されたくないだけさ」

 毎年ジャルジェ家ではノエルを家族だけで過ごしていた。ノエルは一家の跡取りの誕生日でもあったので、客を呼ぶこともせず、ミサの後は家族で食事をしながら一年の無事を感謝し、新たな年の幸福を祈るのが常だった。子供の多いジャルジェ家のノエルは一番下の跡取を囲みそれはにぎやかだった。だが、令嬢達が次々嫁いでいった後は、残された家族にとって寂しいものでしかなかった。時に嫁いだ娘が子供を連れて来ることもあったが、それぞれに忙しいようで、ここ何年かはそれもままならない。
 寂しそうな夫人を見遣ってか、休暇が取れるとジャルジェ家の主である将軍は夫人を伴い旅に出てしまった。今年のノエル、ついにジェルジェ家はもぬけの殻になった。

「ついに残ったのは俺達だけか。初めて過す二人きりのノエルだ」
 アンドレはオスカルに顔を寄せた。オスカルは彼を避けるように背を向けると手紙の文字を目で追った。
「オスカル、まさか、出かけるつもりじゃないだろうな」
「パリに行って仮面と衣装を揃えてこなければな」
 アンドレはうめきながら椅子に座ると恨めしそうに封を見た。
 今は解かれているが、べったりとした蝋が厳重に封をしたことを示していた。見慣れぬ伯爵家の印を押された蝋を合わせてみる。彼はもう一度差し出し人の名前を見た。
「オスカル、お前、この名前に本当に覚えがないか?」


 ほぼ一日費やしてたどり着いた伯爵家は鬱蒼とした森の中に立っていた。闇に沈んでいたが見たところ普通の館だった。妖術使いの家には見えない。
 玄関前には男が出迎えていた。もう舞踏会は始まっているのだろう。馬車を預け案内に従うとゆっくり扉が開かれ、まばゆい光がこぼれてきた。同時にむっとするほどのラベンダーの香りが漂った。
「舞踏会の招待をありがとうございます。オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェです」
 オスカルを見るなり、ホールに立った召使いは顔を赤くし、奥へ引っ込んでしまった。彼女と入れ替わるように小太りの背の低い男がかけてきた。
「これはこれは、オスカル・フランソワさま、まさか来てくれるとは思いもかけませんでした。マジュエルでございます。どうぞお見知りおきを」
 伯爵本人らしい。やはり見覚えはない。男は興奮して落ち着かない様子であったが、顔中に笑みを浮かべていた。
 先ほどの侍女よりは手馴れた様子の女が部屋に案内してくれた。
「こちらがお部屋でございます。お着替えになりましたらお呼びください。下の広間へご案内します」
 彼女は呼び鈴を差し出すと部屋を出て行った。
「どうだ、アンドレ」
 探るようなオスカルの視線にアンドレは肩をすくめてみせた。
「無駄足だったな。どう見ても妖術使いには見えない」
「見た目で判断するものではないぞ」
 オスカルの目は厳しくなる。
「分かっている。気をつけるさ」

 用意してきた仮装用の衣装に着替え仮面をつけた。
 貴族の間では仮面舞踏会は好まれ頻繁に開かれていたが、オスカルが娯楽の為にそのような場所に出かけることは無かった。仮面舞踏会の目的は舞踏ではなかった。隠された本当の目的はアバンチュールだった。パリのオペラ座のような所ならいざ知らず、貴族の館で開く場合はなるべく知らない顔を集めておくことが必要だった。
 仮面を付けるという行為は興奮を誘う。仮面の下の顔を想像しながら恋の相手を探す。互いの仮面を取り合うまでの駆け引きが重要であり、素顔を見る時の興奮は服を剥ぐ時のそれよりも勝った。
 一夜の恋が思いがけなく続き、揉め事になることも度々だった。そのせいか、最近では予め了解を取った上での夫婦同伴を条件にした仮面舞踏会も多くなっていた。
 銀の粉を散らした白い仮面を付け、物語に描かれる騎士が着るような白い服を着たオスカルの姿は異国の王子のようだった。仮面をつけていても、その奥にきらめく瞳が深い蒼い色をしているのが分かる。仮面を取って、あの眼を間近で見たいと誰もが思うだろう。そして、背中に波打つ豊かな髪。どんな王子や姫であってもこれほど豪華な金の髪は持ってはいない。
「行くぞ、アンドレ」
 オスカルに目で促されアンドレも仮面を付けた。


 身分や名前を隠して訪れる客達は、それぞれにこっそり広間に紛れ込む。案内の侍女は広間に続く控えの間から会場に通じる扉を差し示した。
 扉を開けるとシャンデリアの下で沢山の男女が仮面を付けて踊っていた。煌びやかな衣装と派手な仮面が一種独特の雰囲気を醸し出している。広間は熱気に溢れていたが、それだけではなかった。この館に入った時からしていたラベンダーの匂い。それがホールや二階にいた時とは比べ物にならないくらい強く匂っていた。喉が痛くなるほどだ。
「何だ、この匂いは」
 オスカルは顔をしかめた。隠れた演出として香りを立てることはあったが、限度があった。しばらくいるだけで頭の芯が痛くなるほどだ。
「ラベンダーだな」
 アンドレの返事にオスカルは声を荒げた。
「そんなことは分かっている」
「オスカル、これが妖術使いの手だろうか。大判振る舞いすぎないか?」
 エベーラの薬は高価だった。これが『貴方を心地よく酔わせる東洋から取り寄せた魔法の香り』だとしたら気前が良すぎた。
 アンドレは目の前で踊る人々を見つめた。エベーラの館に集まっていた人々は異様に興奮していたり生気がなかったが、ここにいる男女達はそんな風には見えなかった。皆仮面を付けてはいたが、紳士淑女たる振る舞いだった。彼らに得体の知れない薬を求める不健康さはなかった。優雅にメヌエットを踊る誰もが、今宵の恋の予感に目を輝かせるいたって健康な男女だった。
「オスカル、あのご婦人に見覚えはないか? 正面の窓際にいる。紫色の仮面だ」
 アンドレがオスカルの袖を引いた。オスカルは首をゆっくりとまわし窓の方を見遣った。
 紫色の仮面を付けた女が目に入った。魔女にでも扮したのだろうか。目元の派手な作りがきつい印象を与えていたが、仮面に隠れていないほっそりとした顎の線は繊細で、唇も品良く結ばれていた。仮面の縁からは柔らかそうな栗色の巻き毛が覗いていた。オスカルが彼女を認めた瞬間、その唇が笑みを浮かべた。
 紫のローブを纏い、白いレースで飾った袖を両に広げ、女がこちらに歩いてくる。
 近づく紫の仮面。躊躇う素振りは微塵もなく、女は近づいてくる。
「オスカル!」
 女は真っ直ぐに歩いてくると、広げた両手でしっかりとオスカルを抱きしめた。
「オスカル! オスカルね。まあ、アンドレもすっかり立派になって。二人揃っていたから分かったようなものだわ。会えるなんて思ってもみなかったわ」
 紫の仮面につけた白い羽飾りが揺れた。声に聞き覚えがあった。オスカルは紫の婦人の両肩を押さえ声を上げた。
「あ、姉上‥!」

 思い出した。マジュエル伯爵は、姉のクロティルドの嫁ぎ先の縁戚にあたる家だった。

「そうよ、オスカル。わかった? マジュエル伯ったら貴女に招待状を出したのね。パリとベルサイユで貴女の評判を聞いたらしくて、どうしても貴女を舞踏会に招待したいとおっしゃって… でも、ノエルの夜でしょう。私は貴女は来ないと思ったわ。お父様やお母様もいらっしゃるし、仮面舞踏会なんて‥ね。お母様は? お母様はお元気? 一緒なの?」
 クロティルドは伸び上がるような仕草をした。
「姉上、母上は父上と旅行に出かけました」
 オスカルの言葉にクロティルドは合点がいったというように頷いた。
「だから、貴方達、来てくれたのね!」
 不意を突かれたかのように一瞬、間が空いた。その一瞬の間にオスカルは自分の任務の変更をやってのけた。オスカルはクロティルドの手を取った。
「はい、愛する姉上に会いに参りました。」
 クロティルドの出現と共にエベーラの邪悪な影は溶けたように無くなったに違いない。だが魔女のせいで今宵はここにいざなわれたのだから多少は感謝しないといけない。クロティルドの手に口付けるオスカルの横でアンドレが笑った。
「まあ、嬉しいわ」
 クロティルドは微笑み、オスカルの手に手を重ねた。
「踊ってちょうだい、オスカル。昔のように」

 この夜のクロティルドは少女のようにはしゃいで上機嫌だった。クロティルドはオスカルの五人の姉達の中では最もおとなしく思慮深い性格だった。年の離れた姉だったが、よく一緒にダンスをした。小さなオスカルを一人前の紳士として扱い、頼ってくれた姉。たおやかなクロティルドの前では自分が頼もしい存在に感じられたものだ。度量の大きさは母のようでもあり、可憐な少女のようでもあった姉。嫁いでしまった時はひどく寂しかった。
 踊りながら姉が囁く。
「ああ、オスカル、貴女とても素敵になったわ。妹なんて思えないくらいよ。恋をしそうよ」
「姉上、いつからそのような冗談を言うようになったのですか?」
「まあ、冗談だなんて‥ 本気よ。その仮面も素敵よ。一体誰が選んだの?」
 真面目でおとなしい姉とは思えないほどクロティルドは陽気に笑った。
 何曲か踊った後、クロティルドは息を切らせながらアンドレに手を差し出した。
「今度はアンドレ、踊ってちょうだい」


 パリのオペラ座と同じく、ここでは給仕をする女達までが仮面を付けていた。オスカルは一人の侍女が捧げ持つ盆から飲み物を受け取ると部屋の中央に目をやった。
 紫の装束のクロティルドと黒尽くめの衣装のアンドレが踊っている。
 黒髪に黒い仮面、長い黒マント。彼にこれほど黒が似合うとは… わかっていたようでもあり、初めて認識したようでもあった。
 アンドレの踏むステップ、差し出す手の位置、しなやかな上体、目が離せなかった。仮面の奥の目の動き、すれ違うパートナーを見遣る時見せる微笑、仕草… 彼はこれほどまでに艶な姿をしていただろうか。
 部屋の明かりが少し暗くなった。照明が落ちただけで、黒い衣装は表情を変える。オスカルは手にした飲み物に口を付けた。リキュールの冷たさと甘さが喉を流れていく。
 アンドレのリードは的確で、その動きに無駄は無い。流れるように滑らかでありながら、機敏だった。闇を纏ったような彼の姿。胸が鳴った。初めて見るようだった。
 きっと仮面のせいだ。
 オスカルは手にしたグラスに目を落とした。訳もなく身体が火照った。
 ふと気づくと、先ほどまで踊っていた組が一人二人と抜けていく。彼らは皆一様に部屋の隅に退くとクロティルドとアンドレに目を向けていた。
 何とはなしに落ち着かなかった。音楽が止むと同時に婦人客が彼に殺到するのではないか、そんな懸念が頭に浮かんだ。馬鹿な事を… 女からダンスの申し込みなど有り得ない… そうは思いながら落ち着かなかった。
 音楽が止んだ。
 クロティルドがアンドレに手を取られながら引き上げてくる。
「オスカル、素晴らしかったわ。アンドレがこんなにダンスが上手だなんて! オスカル、貴女以上かも知れないわ」
 クロティルドはそう言うとオスカルの頬にキスをした。
「ああ、こんなに踊ったのは初めてよ。疲れたわ。でもとても楽しかったわ、ありがとう。私は部屋に帰るわね。オスカルとアンドレはもう少しここにいる?」
 クロティルドは満足気に微笑んでいる。
「姉上、私達も引き上げます。お部屋までお送りします」
 回りがひどくざわついているようで気になった。

 クロティルドを部屋まで送り届けてオスカルはほっと胸をなでおろした。姉の身を案じたと言ったら言い過ぎになるだろうか。だが、アンドレと踊るクロティルドに婦人客の目が集中していたのは確かだ。彼女らの姉を見る目は尋常ではなかった。
「姉上、つかぬ事を聞きますが、マジュエル伯は病人を治したり、人の悩み事の相談に乗ってるということはありませんか? 或いは、不思議な力があるとか、そういった噂はありませんか?」
 オスカルは水差しから注いだ水の入ったグラスをクロティルドに差し出しながら言った。アンドレが笑うのが聞こえた。笑うなら笑え。お前は婦人客の視線に気づいていないだけだ。嫌な予感がする。この館には人の心を惑わせる魔物が住んでいるかもしれないのだ。
「いいえ。そんな話は聞いたことがないわ」
 クロティルドは仮面を外し、髪をかき上げると水を一気に飲み干した。
「彼の趣味は狩りと読書よ」
「そうですか…」
 その時音を立てて扉が開いた。
「アポロンとヘルメスに化けた魔物め! 私の妻をどこに連れていく!」
 トルコの王族が着るような衣装に喜劇役者の面で男が飛び込んできた。
「義兄上!」
「しばらくだったな、坊や」
 強い力で抱きすくめられたが一瞬で、喜劇役者はベットに横たわる女の元に駆け寄った。
「私の妻は会場中の視線を集めていたぞ! クロティルド、アポロンとヘルメスを従えてお前は美しかった!」
 ほどんど眠りに落ちようとする女を抱き起こし、男は女に口付けた。


「義兄上はあのような人だっただろうか」
 睦み合う男女の部屋から廊下に出た所で、オスカルは額に手をやった。オスカルとアンドレがいるにも関わらず妻に愛情を示す義兄に戸惑った。威厳があり落ち着いた物腰の義兄とはどうしても思えない。
「しばらく会っていなかったからな。でも、アポロンがお前だとお気づきで良かった。そうでなけれはお前、伯爵に殺されていたぞ」
「そうだな」
 オスカルは軽いめまいを感じて頷いた。
「お前と踊るクロティルドさまに皆がため息をついていた。知っていたか? もっとも、衆目の視線はお前に注がれていたが…」
 黒尽くめのヘルメスが囁いた。オスカルは顔を上げてアンドレを見た。仮面の奥の黒い瞳。今は優しげだが、シャンデリアの下、フロアの中央でこの瞳が魅惑的に輝いたのを知っている。アンドレの別の面を見たようで動揺した。
 その時、廊下の端から一人の女が走って来た。蝶が羽を広げたような白い仮面を付け、羽のような柔らかい毛皮をふんだんに使ったドレスを着ている。上半身は淡いレモン色の毛を纏ったようだった。襟をうんと押し下げ肩を露にしている。
 何やら急ぎの用らしい。オスカルは女に道を空けようと壁際に身を引いた。女は勢いを少しも落とさず走りこんでくると、いきなりアンドレに抱きついた。
 抱きついただけではなかった。女はアンドレの首に腕を回し、彼の唇を捉えた。それは長年会えなかった恋人にするような情熱的で躊躇いのない動作だった。
 驚いたアンドレが僅かに身を引くように身じろぎをしたが、それをさすまいとするかのように女は身体を押し付ける。女は吐息を漏らしながら、アンドレの唇を貪った。女は胸を、腹を、腰を、男に密着させ身体をくねらせながら、より深く男の唇を探った。
 アンドレが身体を硬くし女を押し戻す。だが、女の腕は彼の首をしっかり捕らえて離さなかった。 
「お、おい、一体これは、ど…」
 オスカルは言葉が出なかった。突然目の前で起こった事が理解できなかった。女の吐息は喘ぎ声に変わり、赤い唇と舌が生き物のようにうごめいた。
 オスカルはその場に立ち尽くしたまま、事の成り行きを見つめていた。突風のように降りかかってきた事柄に息を呑む事しかできなかった。アンドレは女を引き離すべく抵抗していたが、何があっても離れまいとする女の執念がそれを阻止していた。
 その時、突然、アンドレの膝が崩れ落ちた。まるで折れたかのように彼は膝をつき倒れた。床が音を立てる。女は飛びのくように身を引いた。
「アンドレ! どうした!」
 崩れ落ちたアンドレは無礼な闖入者よりオスカルを驚かせた。これはどういうことだ! おかしい。キスをされたくらいでアンドレが倒れるなど有り得ない! オスカルは床に屈み込み、アンドレの肩を揺すった。
 一瞬息を詰めたように女は床を見ていたが、身を翻すと来た時と同じように駆けていった。
「待て! お前、アンドレに何をした!」
 女を捕まえなければ! どう見ても普通ではない。だが、立ち上がろうとすると腕を引かれた。アンドレの手がオスカルの手首を掴んでいた。
「大丈夫だ、オスカル」
 彼はオスカルの腕を掴みながら、床から半身を起こして言った。
「一体‥ 何があったのだ?」
 押さえようとしても声が震えた。
「今、見ただろう。目の前で」
 アンドレはすっかり身体を起こすと床の上に座った。倒れたばかりにしては、彼の意識はすぐ戻ったようだ。
「ああ、顔に蝶を貼り付けた女がお前にキスをしていった。それもかなり濃厚なやつをだ」
「それだけ見ている暇があったら、何とかしてくれても良さそうなものじゃないか」
「一体、私にどうしろと! いきなりお前が倒れるから驚いたではないか。どうしたのだ」
「どうもしないさ」
 落ち着いた声で彼は返事をした。
「あの女、お前に痺れ薬でも嗅がせたのか」
「いや、そんな心配はない。大丈夫だ。なんでもない」
 アンドレは首に手を回し頭を振った。
「それなら、何だって…」
「俺もたまには気を失ってみたいと思ってね」
 彼は呑気そうに言った。
「…どういうことだ」
「貴婦人達のように気を失ってみたら、誰かが気付け薬でもくれて優しく介抱してくれるかと思ったのさ」
 オスカルの仮面の奥の瞳が大きく見開かれ、瞬いた。
「そうか、お前はキスをされたくらいで気を失うのだな。よし、待っていろ」
 黄金の髪のアポロンは立ち上がると、髪を翻えし階段を下りていった。



 勢いよく部屋の扉が開いたかと思うとオスカルが立っていた。両手に一本づつブランデーのボトルを持っている。
「待たせたな、アンドレ! 気付け薬を持ってきたぞ」
 息を切らせている。二本のボトルが音を立ててテーブルの上に置かれた。
「あの小娘、広間で見かけたから仕返ししてやった。もっとも、今度倒れたのはあの女の方だったがな」
 オスカルは高く笑うとブランデーの栓を開けた。部屋中に芳しい香りが溢れる。オスカルは水差しのグラスを邪険に掴み取るとそこに液体を注ぎ込んだ。
「下の騒ぎがここまで聞こえた。原因はそれか」
 アンドレは仮面を外し、服の襟を緩め、長椅子に座っている。
「さあ、飲め、アンドレ。気付け薬だ」
 オスカルはアンドレの前にグラスを差し出した。
「貴婦人達が気付け薬と称して小瓶に入れて持ち歩いているのはブランデーだぞ。さあ、遠慮はいらん、心ゆくまでやれ」
 アンドレはオスカルからグラスを受け取ると、琥珀色をした液体を一気に煽った。
「どうだ? 気分は」
 オスカルはアンドレに近づき顔を覗き込んだ。
 アンドレは仮面を外した顔を上げ、喉を反らせた。ブランデーは彼の喉を焼き、流れて落ちていっただろう。黒い服のボタンはいくつか外されている。オスカルの瞳は、彼の喉から続く鎖骨の線をたどり、胸に降りていった。服の隙間から大きく上下する胸が見えた。何とは無しに満足を覚えた。彼は頭を反らせ目を閉じている。強い酒に煽られたようなアンドレの表情を見つめ、なぜか胸が鳴った。
「もう二度と気を失うことが無いように呑み溜めておけ」
 オスカルは二杯目をグラスに注ぎアンドレの前に差し出した。
「お前じゃあるまいし、そんな芸当ができるか。もう気付け薬は充分だ。それより、オスカル…」
 アンドレは頭を起こすと手招きでオスカルを椅子の側に呼んだ。彼はオスカルが座れるように長椅子の片側に身体を移動させた。
「何だ?」
 グラスの縁を舐めながら横目でアンドレを見遣りオスカルが言った。蒼い瞳には心なしか険が含まれていた。
「お前の勘は当たっていたようだ。この匂いには気を付けた方がいい」
 アンドレは椅子の背に身体を預けながら、もてあそぶように服のボタンをいじるとゆっくりとそれを外していった。
「ブランデーの匂いに酔ったか」
 オスカルの声にアンドレは首を横に振った。
「違う。ラベンダーの匂いだ」
「何が言いたい」
 オスカルは二杯目のグラスを持ったまま、机を回り、アンドレの隣に腰をおろした。
「何か感じないか? 今日のクロティルドさまはとても快活で朗らかだった」
 アンドレの物言いに抗議するようにオスカルが言った。
「元々姉上は明るい性格だ」
「そうだ」
 アンドレはオスカルの仮面に指をかけた。
「人は皆、仮面を被っている。広大な北の領地を所有する古い家柄の伯爵家当主。その奥方である伯爵夫人。氷の花と呼ばれる近衛連隊長。このラベンダーにはそんな仮面を取り去ってしまう力があるのかもしれない」
 白の仮面は外され、アンドレの黒い仮面の隣に置かれた。
「淑やかな伯爵婦人は明るく朗らかに、統率力溢れる近衛連隊長はますます怒りっぽく… 本来の姿を見せる」
 アンドレの指が、からかうように頬から顎を撫でていく。
「そして、ジャルジェ家に無くてはならないお前はぶっ倒れてみたり悪ふざけが過ぎるということか」
 オスカルはアンドレを睨みつけた。
 先程見た光景が頭に浮かんだ。不可抗力とはいえ、目の前で見せられたキスの衝撃と女を撒く為にしたのであろうが、突然の昏倒。あの驚きはまだ癒されていない。だが彼はそんな事に気づきもしないかのように続けた。
「俺はいつも従順な従僕の仮面を被っている。あまりに慣れすぎて、被っていることなど忘れてしまうほどだ。だが、時々お前と居る時、それをかなぐり捨てたくなることがある」
 見つめるアンドレの瞳に耐えられずオスカルは下を向いた。
「アンドレ、今夜のお前はいつもと違って見えた。フロアでお前の姿を見た時、今まで感じたことのないほど身体が熱くなった。姉上と踊っている時だ。だが‥」
 言い終わらないうちに肩に腕が回され、唇に熱いものが押しつけられた。
「アンドレ‥!」
 オスカルはアンドレの肩を押した。彼の唇は驚くほど熱く、深くなっていく口づけは身体の芯を疼かせる。その動きに心も身体も溶けてしまう前に言っておかなければ…
「それはラベンダーのせいではないぞ」
「わかっている。それは俺のせいだ」
 アンドレの顔が近づき唇に唇が触れた。微かにブランデーが匂った。
「うぬぼれるな」
 オスカルは口から出かけた言葉を呑み込んだ。軽やかな口づけはアンドレがいつもする仕草だったが、それだけでひどく興奮を覚えた。
「オスカル、お前を俺のものにしてもまだ足りない。お前と愛し合えたらそれ以上望むものはないと思っていた。それなのに…」
 背に感じる腕に力が込められ、先より強くブランデーが香った。口づけはゆっくりと深くなる。


 同じ思いだった。彼を愛していながらもっと愛したい。
「アンドレ‥」
 ブランデーの香りを飲み込むようにキスを返した。女にも欲望がある。それを彼は私に教えた。もっと欲しい、彼が欲しい。
 アンドレの口づけは貪欲な予感に充足を与えてくれる。そこに身を委ねる快感。全ての感覚がアンドレに同化していく。
「今夜は仮面舞踏会の夜でもあるがノエルの夜でもある。お前が生まれた日だ。俺は毎年この日に限りない感謝を神に捧げる」
 アンドレの声にオスカルは目を開けた。口づけが断ち切られるだけで疼き始めた身体は破裂しそうになる。
「救い主と同じ生まれだけあって、私は今ままで盛大に祝ってもらってきた」
 もっと続けて欲しいのに… 恨みがましい気分で言葉を返した。だが、冷静に返したつもりでも息の乱れは隠しようがなかった。
 アンドレが顔を覗き込む。間近で見る瞳は見た事もないほど濃い艶があった。その瞳はオスカルの気持ちを見透かしていた。
「濡れてきているぞ」
「…」
「グラス一杯飲まされたのは俺の方だ。オスカル、一口舐めたくらいでもう酔ったか? 今日のブランデーは特別か?」
 黒い瞳が蝋燭の光を受けてきらめいた。オスカルは首を横に振った。顔が熱い。目が潤んでいるのが自分でもわかる。
 アンドレの唇を耳に感じると同時に身体が浮いた。

 ノエルの夜は長くなりそうだった。



Fin



アップ画があります。
こちらからどうぞ。




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