2003 1/12
挿絵 市川笙子さま

隠れ家




 オスカルは屋敷に戻った。屋敷の中はひっそりとしていつもはオスカルの帰りを待っていたように飛び出してくる使用人達の影も見当たらなかった。
 オスカルは自分で馬を厩に繋ぐとホールに入った。ホールはがらんとしており外は五月の陽気だというのに空気が冷たかった。
 人気がないと我が家はこんなにも寂しいものなのだろうか。誰かいないのか?
「ばあや」
 オスカルは叫んだ。何故誰も出てこない。こんな時に何故誰もいないのだ? 自分の声がホールにこだまする。孤独を掻き立てるこんな声は嫌いだ。
 オスカルは二階に駆け上がった。二階の廊下の端からアンドレが来るのが見えた。
「オスカル、どうしたんだこんな時間に」
「アンドレ」
 オスカルはアンドレの腕を握りしめた。手ごてえのある存在を知ってほっとする。
「旦那様の用事が済んだのでこれから宮廷に行こうと思っていたところだ。何があったのだ?」
「何でもない。帰ってきたのだ。今日はもう勤めはない」
「何だって?」
「アントワネット様がご不快でお部屋に下がられるので帰るようにとの御達しだ」
「奥様は?」
「母上はお側に付いている」
「そうか」
「アンドレ、皆はどうしたのだ? 何故誰もいないのだ?」
「おばあちゃんはジャックとナタリーを連れてパリまで使いに行ったが誰もいないわけないさ」
 アンドレは階下を見下ろした。
「皆お前がこんな時間に帰って来るなど思っていないのさ。誰も出迎えなかった事は許してやってくれ」
「そんなことを言っているのじゃない」
「奥様はずっと宮廷泊まりだしお前も時々しか帰ってこないし旦那様のお客もあまりない。デュバリー夫人との一件があってからジャルジェ家は目立たないようにする必要があると旦那様が」
「わかっている」
「オスカル、どうしたのだ? 何かあったのか? 何処かへ寄ってきたのか?」
 アンドレは袖を握りしめてくるオスカルの手を見つめた。
「士官学校に寄って来た」
「何の用だ?」
「べつに用はない」
 オスカルはアンドレの袖を離した。珍しく早く帰れた日だ。こんな日はゆっくりしよう。
「アンドレ、お前の部屋へ行っていいか?」
 オスカルは顔を上げてアンドレを見た。
「いいけど」
 アンドレは口ごもった。さっきまでのオスカルは何か急いでいるように見えた。用もないのに士官学校に寄ってきたとか、今はうって変わって部屋に行きたいと言う。何かあったのか? アンドレはオスカルを見た。何かあれば蒼い瞳にそれは映る。
「久ぶりだ」
 オスカルは嬉しそうに微笑んだ。アンドレはその微笑の中に何かの懸念を見つけることができなかった。何もない。オスカルは晴れやかな顔で微笑んでいるではないか。
「そうだな。着替えてくるか?」
 アンドレは言ったがオスカルは首を横に振った。
「いやこのままでいい」

 オスカルはアンドレの背中を見ながらアンドレの部屋へ通じる階段を登った。幼い頃は日に何回もここを登って行ったものだ。ばあやに何度叱られてもここを登ることは止められなかった。
 オスカルの部屋の階とここは様相が異なる。敷き詰められた絨毯や大理石の柱や装飾の施された壁も何もない。大きな窓の代わりに低い天井があり磨き上げられた調度の代わりに木でできた床と壁があった。
 オスカルはここが好きだった。狭くて薄暗くて暖かくて隠れ家のようだと思った。匂いも違っていた。オスカルは五感に訴えてくるものに何もかも思い出していた。
 ここはとても懐かしい香りがする。何だろう。暖かい日に照らされた干草の匂い、或いは草いきれ。雨の匂い。夜の匂い。自然の中に帰ったようだ。それと焼きたてのパンやガドーの美味しそうな匂い。ここに居るとばあやの胸に抱かれているようだ。
 アンドレは部屋の扉を開けた。
 懐かしい。この窓。オスカルは窓に駆け寄った。屋根の途中に張り出された出窓だった。オスカルはこの窓が羨ましくてならなかった。空に向かい突き出たような小さな窓。それは物語に出てくるような秘密を一杯もっていた。窓枠の台座に乗ることもできた。アンドレはいつもここから夜の祈りをすると言った。そこから見える月は切り取った絵のようで灯りを消すと部屋には月光が溢れた。オスカルは狭い台座の上にアンドレと肘を乗せて月を眺めたり外の景色を眺めたりした。
実際こそこは自分の部屋から眺める景色と違っていた。木々の梢の向こうに通りが見える。表の音がここからははっきり聞こえる。自分の部屋の大きな窓、緑の芝が良く見える日の当たる部屋と同じ位か、もしかしたらそれ以上にオスカルはここが気に入っていた。ここに来ればアンドレに会える。隠れ鬼をしながらアンドレのベットで寝てしまったこともあったっけ。
 オスカルは窓枠に手をかけてみた。窓から見える景色はこんなだっただろうか。窓もこんなに小さい。窓から首を出して外を眺めてみる。
「アンドレ、景色が変わっていないか」
 オスカルの声にアンドレが窓に寄った。
「いいや、ずっとこのままだよ」
 オスカルの後ろから外を見ながらアンドレは言った。窓は小さすぎてもう二人一緒にここから外を覗くことは出来ない。そう、変わったのは景色じゃない、自分の方だ。
 オスカルは窓を背に立ち部屋の中を見渡した。目の前に木でできたベット。テーブルの上に燭台。編まれた敷物。この部屋に来る事がなくなったのはいつからだろう。
「オスカル、何か飲むか? 持ってくる」
「そうだな」
「ショコラでいいか?」
「ああ」
 部屋を出るアンドレを見送りながらオスカルは窓を離れた。アンドレが部屋を出て行ってしまうとオスカルはベットの前の敷物の上に座り膝の上に頭をのせた。もうずっと忘れようとして忘れられない光景が浮かんでくる。忘れようとして何度も振りほどいた。忙しくして気を紛らわそうともした。でも出来ない。きっと忘れてはいけない事なのだ。でもどうしたらいい。こんな日は彼女の影が追いかけてくるようだ。

 断末魔の苦しみ、血に染まった口元。政争の道具として、いや、それよりももっとくだらない見栄の張り合いの犠牲になってあの少女は死んだ。名前も知らないろうそく係の少女。幾つだったのだろう。自分と同じ位かもう少し上か。母親はいたのだろうか。どれほど悲しんだだろう。何故娘が死んだか分からぬまま母は悲嘆に暮れているだろう。
「母上」
 こうしている間に母に何か起こったら…。オスカルは唇を噛みしめた。
 何というところに来てしまったのだろう。くだらない女の意地の張り合いだと思った。いや、実際そうなのだ。だがそれが只の意地の張り合いだけでなくなるのはここがフランス王宮だから。くだらないと軽蔑していた自分はなんとあさはかだったのだろう。それが持つ意味の深さを考えなかった。
 王室とはそれだけで血塗られた歴史を持つ。権力争いの為に今までどれだけの命が奪われて来たか…。今こうしているだけでどこでどんな陰謀が張り巡らされようとしているか…。名もないろうそく係の死は何の意味もなく闇から闇に葬られる。
 ――恐い
 もし母上に何かあったら…。アントワネット様も心配だ。デュバリー夫人は何をするかわからない。脅かしをかけておいたがそんなもの何処まで効き目があるか。気を付けるつもりだが自分だってどうなるかわからない。どこにどんな罠が待ち構えているか。陥れようとする策略にはまったりしないだろうか。
 どうしたらいい。不安と焦燥で切り裂かれそうだ。オスカルは両手を握り締めた。じっとりとした汗が手に滲んでくる。あの少女の顔が頭から離れない。死とはあんなに惨たらしいものか。母上もああやって死ぬのだろうか。

「オスカル」
 戸を開けて入ってきたアンドレにオスカルは気がつかなかった。
「オスカル、どうした?」
 アンドレはオスカルの側へ歩み寄った。オスカルは敷物の上に座り込み立てた膝に頭を乗せていた。疲れて眠ってしまったのかとアンドレは思った。だが違うと気づいたのはオスカルが小刻みに震えていたからだ。
「オスカル、どうした、気分でも悪いのか?」
 アンドレは持っていたショコラをテーブルの上に置くとオスカルの腕を取った。腕を取られ顔を上げたオスカルを見てアンドレは驚いた。泣いている。
「どうしたんだ、オスカル、具合が悪いのか?」
 アンドレはオスカルの両手首をつかみながらオスカルを見た。オスカルは脱力したように腕をアンドレに預けていたが視線を合わせるのを避けるように顔を伏せた。
 オスカルは手首を締め付けてくる力に心地良さを感じた。アンドレの手から生気が伝わってくる。それは死の淵を覗いたような自分をすくい上げてくれる力強さがあった。
 つかまれた手首を振りほどくでもなくオスカルは声を殺し唇を震わせて泣いていた。いつものオスカルと違う。アンドレの心に戦慄が走った。
「何があったのだ! オスカル、何が‥ 士官学校で何かあったのか?!」
 アンドレの剣幕にオスカルは首を横に振った。涙がこぼれて床の上に落ちた。オスカルはそのまま倒れこむようにアンドレの腕の中に体を投げた。
「アンドレ、頼む。しばらくこうしていてくれ」
「オスカル」
 アンドレはオスカルの体を起こそうとした。オスカルが何故泣いているのか、何があったのか分からない。オスカルはアンドレの動きに逆らうように顔を伏せた。
「頼む、アンドレ、このままでいさせてくれ」
 オスカルは懇願しながらアンドレの胸から体を僅かに離した。アンドレは体をつけることを嫌がる。いつからそうなったかわからないがアンドレの背中に抱きつき思いっきり振りほどかれた日の事を覚えている。初めは何故か分からず戸惑ったがもう子供じゃない。アンドレが嫌がるのも分かる。私は女でアンドレは男なのだ。いつまでも子犬のようにじゃれあっていた日は過ぎたのだ。でも時々優しい手が欲しくなる。誰かに抱かれたいと思う時がある。
「オスカル、こうしていたいのならいつまでもこうしていたらいい。でも何があったか分からなくては俺は旦那様の用事だったとはいえ一時でもお前と離れていた事を一生後悔すると思う」


 アンドレは腕にのったオスカルの頭に手をやりそっと指で髪をすいた。オスカルのなめらかな艶やかな髪を手に感じながらアンドレは胸の中に広がる不安を払拭出来ないでいた。オスカルが泣く事は今までにもあった。オスカルの豊かな感情は時として蒼い瞳から涙を溢れさせることはあった。でもこんなふうに消え入りそうに心もとない涙はなかった。

(どうしよう、言ってしまおうか)
 アンドレの指を髪に感じながらオスカルは自問した。
(アンドレは信用出来る。でも言ったからってどうなるものでもない)
「オスカル、俺には言えないことなのか? 言いたくなければ言わなくてもいい。でも…」
 アンドレの言葉をさえぎるようにオスカルは顔を上げた。
「アンドレ、デュバリー夫人の陰謀に母上がはめられそうになった」
「何だって?」
 アンドレの目の色が変わった。
(私は重荷の半分をアンドレに背負ってもらいたいだけなのだ)
「オスカル、どういう事だもっと詳しく話してくれ」
「もう終った事だ」
「奥様は無事なのか?」
「あたりまえだ! 母上には指一本触れさせはしない!」
 オスカルの目に強い光が宿った。
「はめられそうって一体…」
「母上がデュバリー夫人の私室にぶどう酒を運ばされた。お前が教えてくれた日だ。そのぶどう酒の中に毒が入っていた。それを飲んだろうそく係が死んだ」
「何だって? 俺が教えた日っていったらもう一ヶ月も前の事じゃないか」
「母上はこの事は誰にも言うなと言った。父上にもだ。分かっている、こんな事が広まればどんな事態になるかくらいはわかる、でも…」
 オスカルの目から新たな涙が溢れた。
「奥様が心配なんだな」
「それだけではない」
 アンドレはオスカルを見た。オスカルは床に座り込んだままもう胸にもたれることもせず唇を噛みしめていた。オスカルはここ一ヶ月近くほとんど宮廷泊まりだった。アントワネット様のお側に上がられた母親であるジャルジェ夫人にぴったり付き従うオスカルの行動には訳があったのだ。一ヶ月の間オスカルはこの事を一人で胸の中にしまい込んでいたのだ。
 それにしても毒を入れたぶどう酒をろうそく係に飲ませるとは…。デュバリー夫人は恐ろしい人だ。オスカルはその現場を見てしまったのだろうか。
「奥様は大丈夫だ。心配いらない」
「アンドレ、気休めをいうな!」
 オスカルは目に涙を滲ませたままアンドレを睨みつけた。
「奥様だって充分気をつけるさ。デュバリー夫人だって馬鹿じゃない。ジェルジェ家の奥方でアントワネット様の首席侍女の奥様に手出しできる訳がない。もうすぐアントワネット様の時代だ。オスカル、お前は目立たない方がいい。奥様やアントワネット様に付き過ぎるのもデュバリー夫人を刺激してよくないかもしれない」
(アンドレは母上と同じ事を言う)
「オスカル、今日はもう帰りなさい。私は大丈夫ですよ。たまには帰って皆に顔をみせなさい」
 母はオスカルの顔を両手ではさみそっと言った。
「でも…」
 口ごもるオスカルに今度は毅然とした態度で母は言った。
「これはアントワネット様のご命令です」

「オスカル、軍服を脱いで」
 アンドレの声にオスカルは我に返った。軍服の釦に手をかけようとするアンドレを制してオスカルは自分で釦を外した。肩から袖を抜き取るとアンドレはそれを受け取りベットの上に置いた。
「オスカル、こっちにきて」
 アンドレはオスカルと体を入れ替えるようにしてベットに背をもたせかけた。
「オスカル、話してくれて嬉しいよ。俺でも少しは役に立てるのかと思える」
「アンドレ、私は弱い人間だ」
「人間など皆そうさ。誰でも自分の弱さと向きあって生きている。それに気づいた時が強くなる第一歩かもしれない」
 アンドレは強い。自分よりずっと強いのではないかと時々思う。アンドレが両手を差し出した。オスカルはそれに導かれるようにアンドレに体を預けた。
 こんなふうに優しく抱かれる腕を欲していた。心配ないと慰め励ましてくれる…。アンドレは私がこうしていること迷惑ではないのか。オスカルは背中に感じるアンドレの手に限りない安堵を得た。
 ―誰も奥様に手出しは出来ない―
 先のアンドレの言葉が頭の中に繰り返される。それはこの一ヶ月の間に増幅してきた不安を一掃してくれた。
(アンドレ)
 オスカルはアンドレの腕に顔を擦りつけた。また涙が滲んでくる。安堵の涙だ。アンドレの腕から胸から暖かい潮が満ちてオスカルの心を満たした。
 私は恵まれている。母上をお側近くでお護りする事が出来る。私に比べたらアントワネット様は御母上であるオーストリアの女帝陛下にお会いする事もできず単身敵国のようなフランス宮廷に来られたのだ。心を込め精一杯お護りしようと思う。そして今この身を預けているアンドレはもう一生母上と会う事は叶わないのだ。
 オスカルは泣いた。自分でもわからない様々な感情が押し寄せ渦巻いた。苦しそうな少女の顔が浮かんだ。誰かあの少女の為に涙を流した者がいただろうか。娘をなくした母に想いをかけている人がいるだろうか。
 オスカルはアンドレの胸に顔をつけた。はっきりと聞こえる心臓の音。それは確実に自分に力を与えてくれる。もう少し、もう少しこのままでいさせて欲しい。オスカルは体の力を抜いてアンドレにもたれかかった。

 オスカルの体重を体に感じアンドレはオスカルを抱く腕に力を込めた。力一杯抱き締めてしまいそうになり途中でその力を止めた。オスカルの気持を考えたらそんな事できはしない。オスカルの震えが腕に伝わってくる。アンドレはオスカルの背中に両腕を回しながらオスカルの頭にそっと頬を付けた。オスカルの髪の匂いがアンドレを包んだ。頬をずらしその髪に口付ける。オスカルは小さく震えながら身動きしない。アンドレはオスカルの背中を撫でそこに広がる髪を両手に絡ませながらオスカルの髪にもう一度口付けた。
 愛している。オスカルを愛しく想う気持は押さえられない。自分の立場が分からぬ訳がない。オスカルに想いが通じる事などきっとない。身の程をわきまえよ。誰に言われなくとも分かっている。引き返せなくなる前になんとかしろ。何度も自問した。でももう無理だ。オスカルを想う気持は止められない。
 濡れて輝く蒼い瞳。指に絡みつくしなやかな髪。そして心を掻き立て落ち着かなくさせる甘い匂い。オスカルの甘やかな匂いはアンドレの男の部分を容赦なく刺激した。年と共にオスカルは部屋にも来なくなり無邪気に背中にしがみ付いてくる事もなくなった。もう近くでオスカルに触れる事はないだろう。そう思っていた。このままそっと距離を取ってゆくのだろうか。一抹の寂しさを感じながらそれでもオスカルの変わらぬ態度に今までと変わらぬ友愛は感じられた。でも自分の気持は友愛ではおさまらない。もう触れることも無いと思っていたオスカルの髪に体にこうして触れている。それはもう後戻り出来ない事をアンドレに示唆していた。
 早くなっていく胸の鼓動をオスカルに聞かれてしまうきまり悪さを感じながらアンドレは腕に力を込めた。愛している。オスカル、お前の魅力は美しさだけではない。殺された女の為に何人の人間が泣いただろう。オスカルの涙は鎮魂の涙。お前は深い情愛の心を持っている。俺はお前の気高く崇高な精神を愛しているのだ。
 オスカルの震えが徐々におさまってきた。オスカルを離したくない。アンドレはオスカルの頭に顔をつけ両腕で掻き抱き自身の体の中に包み込んだ。離さない。オスカルはぐったりしたように体を預けている。その重みに限りない喜びを感じながらその時が有限である事が恨めしかった。
 オスカルのことだきっとこれを乗り越え今までと同じように勤めに励むだろう。オスカル、お前は自分の人生をどう思っているのだろう。お前はアントワネット様にお仕えするために士官学校を途中で辞めさせられた。国王陛下からの直々の御命令でその大役はジャルジェ家の跡取オスカル・フランソワだからだとだれもが喜び感心した。お前もその役目に誇りを持っていたように感じたがどうなのだろう。
 オスカルは学校が気に入っていたようだった。男の中に入っていくオスカルを俺は随分心配した。でもそんな心配は杞憂だった。オスカルは持ち前の明るさと誠実さで多くの友人を得ていった。いつも帰りの馬車の中で御者台の俺に聞こえるように学校の話をするオスカルは嬉しそうだった。多くの友がまだ学務途中で勉学や訓練に励んでいるというのにオスカルにはそんな時間さえなかったのだ。
 オスカル、お前がいじらしくてたまらない。徐々に力のこもる腕をアンドレは止められなかった。アンドレはオスカルの頭から顔を離しそっと覗き込んでみた。オスカルはアンドレの胸に顔を付け目を閉じていた。長いまつげに涙のしずくがついている。安心しきったように体を預けている腕の中のオスカルはまだ小さい子供のようにも見えた。

 アンドレの腕に力がこもる。それはオスカルの周りの空間を狭め心地良い安全な場所へいざなってくれた。この腕の中にずっといたい。何もかも忘れて小さい子供のように抱かれていたい。顔を付けたアンドレの胸からアンドレの匂いがする。自分や姉達とは違う多分男の匂い。それがとても心地良い。そう、私にはアンドレがいる。一人で突っ張らなくても良いのだ。それは誰かに頼るとか責任から逃れるのではなく自分の弱さを自覚し信頼の力を借りる事。そして強くなるのだ。真の意味で強くなりたい。大人にならなければ。もう子供でいられない。お護りしなければならない人がいる。泣いている場合ではないのだ。これからも宮廷にいる限りどんなことが起きるかわからない。アントワネット様や母上を守る為自分が人を刺し殺したり誰かの頭を撃ち抜かなければならない時がくるかもしれない。それだけの覚悟が必要だ。そうだ、子供の時代に別れを告げるのだ。でも今日一日だけこの胸で泣くことを自分に許そう。アンドレ、お前がいてよかった。お前は限りない力強さに満ちている。新たに涙が滲んでくる。だが胸が塞がれる苦しさはもうない。
 オスカルはアンドレの胸から頭を離しアンドレを見上げた。アンドレの黒い瞳がすぐ目の前にあった。その瞳は驚いたように見開かれ戸惑ったように動いた。だがそれも一瞬でオスカルはまた頭をアンドレの胸に押し付けられた。
(いいのか、アンドレ、このままだとここで眠ってしまうぞ)
 オスカルはアンドレの腕の中でもう一度目を閉じた。
 黄昏が部屋の中にしのび込みそっと二人を包み込んだ。 



Fin




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