2006 12/8

革命前夜

-後編-





 薄暗い部屋には死の臭いが立ちこめていた。窓を開けようとすると病人は弱々しい声でそれを拒否した。
「開けないで。日の光が眩しくて、それだけで死んでしまいそうになる」
 シルビーは窓から離れ、病人の傍に腰をおろした。
「シルビー、いつもすまないね。でも、もういいんだよ。もう来ないで」
 ほんの数日の間に病人はすっかりやつれていた。噴き出した腫れ物は全身を覆い醜く爛れている。頬はこけ、目は落ち窪み、顔色は土のようだった。
「何言ってるの。今日はいい物を持ってきたわ。少し栄養をつけなくちゃね」
 言いながら彼女はもう長くはないと悟る。寝台に力なく伏した女は長い付き合いの友達だった。娼館に足を踏み入れ、そこで働くことになった時に何くれとなく助けてくれた女。女将に虐待され、嗜虐嗜好の客に殺されかけていたシルビーに、逃げ出すように示唆してくれた女。
『あんたほどの器量なら一人だってやっていけるさ。こんな所でむざむざ死ぬことはないよ』
 彼女は手引きしてくれ、隠れ場所を探してくれた。いい娘がいると宣伝し、客を回してくれた。ひもじい時は食べ物を分けてくれ、金を貸してくれた。
『弱い女は助け合っていかなければ』 それが口癖だった。別々の場所で働きながらも時々は会い、尽きぬ話をした。
「うつる病気だったらどうするのさ」
 今際(いまわ)の時でさえ友人を心配する友に背を向け、スープを火にくべる。
 菓子でも果物でも珍しい物が手に入った時は持っていった。最初は嬉しそうに食べてくれた。だが病が高じるとそれも喉を通らなくなった。口に運んでやれば少しは食べる。だが固形というだけで苦しいようだ。果物を搾り、菓子をミルクに溶かしてみた。滋養をつさせなければ、どうしたらいい。考え得るあらゆる方法を講じてみた。
 医者に見せようとしたが金がない。貯金をはたいて一回きてもらったが、塗り薬をくれた他に何の処置もなかった。医者は「娼婦に特有の病気で治らない。長くはない」と冷たく言い放った。
 もう医者になんか頼るものか! 幸い親切な薬屋の女がすぐ近所に引っ越してきていた。彼女から薬をもらい友を看病した。だが病魔は確実に、着実に、友の命を奪っていった。
「スープを作ったわ。飲んでくれるわね」
 具を沢山入れ、こして煮詰めミルクでのばす。少量で滋養がつくように工夫してみた。少しでも長くこの世に友を引き止めていたい。差し出すスプーンに口をつけ、友は美味しいと言って飲んでくれた。だが飲み込む時に苦しそうだ。彼女の行為、それはシルビーの為にそうしているのだと分かった。
「またね」別れ際はいつもそう言って別れた。だが今日友は「さようなら」と言った。彼女は運命を悟っているのか… 涙を見せてはいけない。いつもと同じように接しなければ…
「また来るわ」
 友の額に口を付けながらシルビーは言った。


 虐げられた者は虐げられたまま死ぬのだろうか。この世に神はいないのだろうか。たった一人の友を救えず死ぬのを見届けるしかない。パリにはこんな死が溢れていた。子供や老人はあっけなく死ぬ。貧しい者は食べ物がなくて死ぬ。弱い者から死んでいく。そしていつしか人はそれに慣れていく。
 病床の友の前でこらえていた涙が溢れ出した。街は慌しく人がかけていく。街の片隅で死にかけている女のことを気にかける者はいない。あれは未来の私の姿。遅いか早いかだけの違い。私もいつかボロ布のように死んでいく。だがそれもいい。目の前で腐っていく友を見ながら己の無力さに苛まれているより、よほどいい。
「テュイルリー広場だ」
 道行く人が口々に叫んでいた。
「乱闘が」
「テュイルリー宮広場で発砲だぞ」
 興奮した人々があちこちにかたまっている。いつも街には争いや乱闘があった。いつになったら平穏がくるのだろうか。
 テュイルリー宮、テュイルリー宮広場、口々に叫ぶ声。紅潮した人々の顔。不穏さの中に混じる高揚。胸騒ぎがした。誇りではちきれそうな高揚の影にはいつも犠牲がある。
「ドイツ人騎兵が発砲した。フランス衛兵が応戦した!」
「フランス衛兵は市民の味方だ!」
 輪になって大声を上げる一団の側を通り過ぎる拍子に耳に届いた一言がシルビーの歩を止めた。
―――フランス衛兵。
「テュイルリー宮で何があったの?」
 突然割り込んできたシルビーに人々は我れ先にと話し出した。先ほどの鬱々とした気分は吹っ飛び、痛みにも似た衝撃が全身を駆け巡った。
「テュイルリー宮広場に行こう! 俺達にも何かできるかもしれない!」
 数人の男達がかけだした。それにつられてシルビーも走った。走りながら話の断片を繋ぎ合わせる。テュイルリー宮広場で発砲を含む乱闘があり、それにフランス衛兵が加担した。
 広場を目指しながら、シルビーは膨れ上がる胸騒ぎをどうすることもできなかった。フランソワがベルサイユに去ってからいつも心に影のように巣食っていた不安。それが正体もわからぬまま濃くなっていく。
 今まで小競り合いや乱闘はいくらでもあった。窓からいつも見ていたじゃないか。今度だってきっとそう。乱闘なんていつものように何事もなく終わっている。
 目的地に辿り着く以外に何も考えないようにと思いながらも、不安は異様に膨れ上がり足を取る。まるで紛らわしたり抑え付けたりすると増大すかのように… 途中で叫び出し、しゃがみたくなるのをこらえながらシルビーは懸命に走った。


 テュイルリー宮広場にはまばらな人しかいなかった。聞いてなければそこで乱闘があったなど思いもしなかっただろう。だが地面には軍服の切れ端と思える布や兵隊の帽子が落ちていた。市民の服の袖や血の付いた白布も落ちていた。そして何より、石畳に染み付いた血の跡。それがここで何が起きていたか知らせていた。
 シルビーは地面に膝を付きそこに手を置いた。ぬるりとした感触はまだその跡が新しい事を示していた。ぎゃっと叫び声を上げシルビーは後に飛びのいた。手に付いた色を服にこすりつけ、喘ぐように地面に這いつくばった。おこりのような震えがきて全身に広がった。足が立たない。虫のように手足を動かしシルビーは石畳にへばりついた。目の前に一面に広がる石畳。這いつくばっているとそこかしこに同じ染みを見つけた。シルビーは一つの物に手を伸ばした。青の布着れ。見慣れた色。この世で最も愛する色。フランス衛兵の軍服の色。
 叫びは自分の喉から出たとは思えなかった。目の前が暗くなりシルビーは気を失った。


 気が付くと見知らぬ家にいた。目の前に人の良さそうな女の顔があった。
「気がついたかい? いきなり叫んで倒れるから驚いたよ」
 シルビーは急いで手の平を見た。血の跡はない。服を見る。あれは悪い夢だったのだろか。だが服にそれは付いていた。途端にまた震えが襲ってきた。
「テュイルリー宮で何があったのです?」
 重大なことが起こったのに何も知らない自分が歯がゆかった。シルビーは女の腕に手をかけた。
「ああ、そりゃ凄い乱闘でね。戦争のようだったよ。ドイツ人とフランス衛兵が鉄砲でやりあうんだから。最初ドイツ騎兵が市民に発砲したんだよ。市民は応戦しようたって、武器もないし、やられるだけさ。そこに…!」
 人の良さそうな女は鉄砲を構える仕草をして見せた。
「フランス衛兵がやってきてドイツ人どもを蹴散らしてくれたのさ」
「怪我人は?」
「そりゃ出たさ。市民が何人も撃ち殺されたよ」
 全身にまた震えが走った。
「フランス衛兵は? フランス衛兵は誰かやられましたか?」
 女の腕にかけた手を揺さぶった。女は驚いた目をして、シルビーを見た。
「そ、そりゃ誰か怪我したかもね。でも慌しくて、めちゃくちゃで、私には分からないよ」
 シルビーは急いで起き上がると礼もそこそこ駆け出した。


 いつもの店にはいつものように人だかりがしていた。男達がてんでばらばらに喚いていたが、誰もシルビーの聞きたい事を知っていそうもなかった。
「クロードは? クロードはどこ?」
 喚くだけしか能のない男よりあいつを探した方がよさそうだ。きっとクロードなら知っている。 
「あ? どこかにいるだろう。これから忙しくなるぞ! 国王の軍隊を蹴散らせってんだ!」
 汗にまみれた体で拳を天に突き上げる。ここにも忌々しくなるほどの高揚があった。
「ねえ、クロードはどこ?」
 別の男に声をかける。
「知るかい! そのうち来るだろうよ」
 誰もが熱に浮かされたように浮き足立っていた。クロードを待てない。フランソワ達を探しに行こう。
 痺れをきらし店を出たところでシルビーはクロードとすれ違った。探し求めていたものに縋るようにシルビーは彼を押しとどめた。
「フランス衛兵はどこにいるの? 誰か怪我をしたか知っている?」
 急ぎ足でいた彼はわざわざ立ち止まり、行く手を阻む者に目をかけた。
「フランス衛兵がどこにいるかだと? 知らないね。彼らは軍隊だ。どこぞに野営でもしててるだろうよ」
 冷たい突き放すような言葉だった。フランス衛兵は、彼らは英雄ではないのか?!
「フランス衛兵は市民を助けてくれたじゃない!」
 そうだ、あの血潮は誰のものだ。市民の為に血を流したのは誰なのだ! いきり立つしルビーを鎮めるようにクロードはシルビーの腕をつかんだ。黒いぎらついた瞳に射すくめられシルビーは黙った。
「そうだ。彼らは英雄だ。だがこれで国王側が黙っているはずない。奴らは俺達を殺しにくる。準備が必要だ。俺達は国民義勇軍を作りフランス衛兵を援護する。取りあえず武器だ! これは戦争なんだ!」
 燃え盛る男の顔があった。
「ねえ、あんたなら知っているでしょう。フランス衛兵はどこにいるの? どこに行けば会えるの?」
 泣きながらシルビーはクロードに縋った。頼りになる者は他にいなかった。こうしている間にも震えは絶え間なく襲ってきた。シルビーを見下ろす彼の瞳に哀れむような侮蔑の色がこもった。
「馬鹿な女だ。探したければ一晩中でも探すがいいさ」
 彼はシルビーの体をかわすと店の中に姿を消した。



 一晩中探してもどこにもフランス衛兵の姿は見つけられなかった。白々と夜が空けてから部屋に戻り、そのまま寝台に倒れこんだ。恐ろしい不安に苛まれているにもかかわらず意識を無くした。
 いつも感じる日の光より騒々しい物音で目が覚めた。人々の興奮した叫び声が聞こえる。不吉な高揚。心臓が締め付けられる。
 シルビーは急いで起きると窓を開けた。
「バスティーユだ!」
「武器を持ってバスティーユに向かえ!」
「バスティーユは話し合いに応じない。力で奪い取れ!」
 シルビーは急いで階段を駆け下り、通りに出た。人々が喚きながら一方向に走っている。
「アンヴァリッドの武器庫が開いている。武器を取れ!」
「バスティーユにフランス衛兵が来ているぞ!」
 フランス衛兵! バスティーユ! 頭に閃光が走る。シルビーはスカートの裾をたくし上げ走った。フランソワ、今行くわ。待っててちょうだい。
 遠くにバスティーユの威容が見えてきた。シルビーは足を止め、胸を掴んだ。走り通しただけではないと思う。胸が苦しかった。
 バスティーユの前には市民がごった返し、人の頭と人いきれしかなかった。フランス衛兵は? どこにいるの? 探さなくては!
 狂ったように見渡すシルビーの目に大砲を引きずる軍隊の姿が見えた。あれがそうだ! だが気づく間もなく、きな臭い臭いがたち込め、煙に視界を塞がれた。
「フランソワ! アラン!」
 叫びながらシルビーは人の群れを泳ぎ、身を捩り、人垣の薄いところを狙い這い出した。同じように何人かの武器を持った男達が抜け出し大砲の見えた方角に走り出した。だがそちらの方向はもうもうとした煙に呑まれ何も見えない。
 突然空が抜けるかのような大きな音が鳴り響いた。人垣から悲鳴が聞こえる。大砲の音だ。それくらいはシルビーにも分かった。続いてパンパンいう音が絶え間なく響く。それら全てが煙の中から聞こえるのだ。今まさに目の前で戦闘が繰り広げられている! あの中にフランソワやアランがいる!
「やめて! やめて! 助けて!」
 叫びながら煙の渦に突進した。銃の音が激しくなる。煙から男達が飛びだしてくる。こちらから行く者とあちらから来る者が交差する。風にのり四方八方流れ出した煙はあたりを包み込みながら時々潮が引くように薄くなる。その度にちらりと青の軍服や大きな大砲が見えた。もう一度天に突き抜ける音が響いた瞬間、煙の向こうの一際高くなった所に翻る金髪が見えた。
「金髪の隊長だ!」
 戦闘の中にいて一枚の絵を見るようにそこだけ止まって見えた。金色の髪、紺の軍服。フランス衛兵の隊長がいる! それは大きな勇気となった。あの姿の元にフランス衛兵は集うのだ。あそこにフランソワがいる! 震えよりも希望があった。もうすぐ会える。だが次の瞬間シルビーは誰かに突き飛ばされ地面に転がされた。
「馬鹿! ここは戦場だぞ! 女の来る所じゃない!」
 石畳に叩きつけられた体を誰かが引き上げる。
「嫌よ! 離して!」
 体を捩るシルビーを抱え男は言った。
「女なんかに何ができる! おとなしくしろ! 足手まといになりたいのか!」



 バスティーユは陥落した。市民達は牢獄司令官の首を槍に突き刺し、勝利の凱旋をした。虐げられた者が抑圧の象徴を破壊する。それは初めてのことだった。熱狂はこれに繋がる明日しか見ない。
 市民だけでこの勝利はありえない。その立役者はどこに行った。テュイルリー宮の時と同じく彼らは姿を消した。
 国王の軍隊でありながら国王に楯突いたフランス衛兵はどこに行く。彼らに行く当てはあるのだろうか。一人の市民となり故郷に帰るのだろうか。
 フランス衛兵が今どこにいて何をしているのか分からないまま日々は過ぎていった。彼らに繋がる何でもいいから知りたくて毎日店に顔を出した。だがその動向は途切れたまま… 市民の口からフランス衛兵をたたえる言葉は出るが、一人一人について知っている者はなかった。賞賛の言葉の端々に時に上るだけでフランス衛兵は忘れ去られるのだろうか。フランソワは‥アランは‥、金髪の隊長は…どこにいるのだろうか。
 クロードや市民達は着々と国民義勇兵を組織している。今の状態を革命と言うらしい。そんなことはどうでも良かった。誰か教えてよ! フランス衛兵のことを! 時々叫び声を上げて男達の熱狂を蹴散らしてやりたくなる。フランス衛兵がどうしているか知りたいだけなのよ。いつも同じ事の繰り返しだった。焦燥は怒りとなり、落胆と悲しみに変わる。
 

 最近ひどく疲れやすい。三部会の時の行進が遙か昔の事のように思える。あの頃は希望もあり気力もあったのに、一体どうしたことだ。だらしない。テュイルリー宮の石畳とバスティーユの戦闘を見た時、二回気を失った。バスティーユの塔にはためく白旗は見なかったが、槍に突き刺され晒し者になった生首は見た。空っぽの胃から胃液が逆流し石畳を汚した。
 焼かれるような焦燥は心を縛る。西を向いた部屋は窯のように暑く風が入らない。病気でもないのに伏せる日が続く。


 夢の中で扉を叩く音がした。シルビーは目を開け閉め切った戸を見つめた。夢ではなかった。誰かが扉を叩いている。誰も訪ねる者はいないこの部屋。あの人以外には… 確信があった、シルビーは急いで跳ね起きると扉を開けた。
 そこには汚れた男が立っていた。疲れきっているのか身体をまっすぐにできず壁に半分もたれかかっている。
「アラン!」
 思い描いていた人物とは違っていたが、それは待ち焦がれていた人だった。
「アラン、無事でいたのね! 探したわ。良かった」
 男を部屋に招き入れる。懐かしい姿は心を絞るように涙を溢れさせる。
 軍人の軍服は土と埃にまみれて色が変わっていた。髪も髭も伸び放題で、顔は土を汗で拭いたように汚れていた。
 アランの後に目をやったが彼は一人だった。戸を閉めようと手を伸ばしたシルビーの背中にアランの声が響いた。
「シルビー、フランソワが死んだ」
 抑揚のない声だった。生気のない声がしゃべる恐ろしさ。シルビーは急いで声の方を振り返った。目の前に頭をめり込ませたような軍服の背中が見えた。それがゆっくりこちらに向き直る。血走った男の目と目が合った。
「何ですって?」
 不吉を追い払うようにシルビーは首を横に振った。アランは‥ そう、彼は冗談が好きだ。きっと物陰からフランソワが抱きついてくるに違いない。そう、彼らは人を驚かすことが好きなのだ。
「ここにあいつを葬った。あいつの教会だ。いつか行ってやってくれ」
 信じていないのに彼は胸からくしゃくしゃになった紙切れを出すと机の上に放った。
「いやよ」
 シルビーは後ずさりした。頼もしく大好きだったアラン。それが今は恐ろしい魔物に見えた。
「信じないわ‥ フランソワが死んだなんて… 信じないわ。アラン! フランソワを今すぐここに連れてきてよ! 今すぐよ! あたしこれ以上待てないんだから!」
 アランの両腕に手をかけ揺さぶった。彼は首をがくがくさせながら揺さぶられるままになっていた。アランに手を触れているとそこから黒い何かが伝わってきそうでシルビーは思わず手を離した。まるで‥ 彼は死神のようだった。一切の生気が失われている。恐ろしかった。人は生きたまま死ねるのか。
 背に這ってくるものは何だろう。頭の中にアランが告げた言葉が蘇る。シルビーはアランに背を向け目を閉じ耳を塞いだ。その塞いだ耳にアランの声が聞こえた。
「なあ、シルビー… フランソワは… あいつは‥ 幸せだっただろうか」
(そんなこと‥知らない)
 心の中でつぶやきながら混乱はどうしようもなかった。どうしたらいい。とにかくアランがいる。明日彼に案内させてフランソワに会わせてもらおう。フランソワと約束している。いつかこの髪に合うドレスを買ってもらう。金の指輪を買ってもらう。そう約束した。
 不意に襲ってくる震え。今までどれほど耐えただろう。だがそれを打ち砕くような音が部屋中に鳴り響いた。何かが落ち、床を鳴らした。椅子が倒れる音に金属音が混じる。シルビーは急いで振り返った。アランが机の下に倒れている。尻を床につけ、倒れた椅子に腕をかけ、まるで何が起きたか、ここがどこか判らないような呆けた顔で空ろに目を回している。首は力なく倒れ、サーベルが床に転がっている。
「アラン、しっかりして」
 シルビーはアランに手を貸し起き上がらせようとした。その時になって初めてシルビーはアランの左肩に穴が開いているのに気づいた。良く見ると左腕が赤黒く染まっている。アランは傷を負っている。
「立てる?」
 シルビーを見てアランは自分の居場所を確認したかのように見えた。わずかな正気を動員して彼はのろのろと立ち上がった。
「アラン、少し休んだ方がいいわ」
 シルビーは床に落ちたサーベルを拾うとそれをテーブルの上に置き、細心の注意を払いアランを古ぼけた長椅子に案内した。気をつけていなければ彼は崩れ落ちてしまうように心もとなかった。
「服を脱いだ方がいいわ」
 軍服の前に手をかけたが彼は拒否しなかった。されるがままになっている。シルビーは一つづつ軍服のボタンを外していった。汗が体臭を濃くさせる。シルビーは注意深くアランの顔を見た。伸び放題の髭に覆われ、土と埃にまみれた顔は、汗か何かでこねたように幾筋もの汚れの縞を作っていた。
 ボタンを全て外し軍服を肩から落とす。まるで鎧のように重く固まった軍服。左の肩と腕部分は明らかに血と思われる染みで変色していた。次に汚れたシャツを脱がしにかかる。油と肉の腐ったような強い臭いがした。これは傷の臭い。薬と、治ろうとする肉が発する臭いだ。シャツを脱がせながらシルビーは気づいたようにアランの肌に手を触れた。熱がある。
 シャツの下は左の肩から胸にかけ布で覆われていた。その布も変色した染みで半分以上が染まっていた。染みは布を強張らせ固めている。饐えた臭いはより強くなる。
「撃たれたの?」
 シルビーは長椅子から立ち上がると水差しから水を汲み布を浸し絞った。傷ついた男の側に行き、左腕の布で覆われていない部分の肌を拭いた。
「撃たれた?」
 まるで焦点のずれた質問をされたようにアランは聞き返した。
 それっきり彼は黙った。黙りながらアランの横顔に浮いてきた生気にシルビーは目をみはった。怒りだろうか。みるみる引き締まる横顔。怖いくらいの怒張が走り、血走った目に異様な光が宿った。死神に魅入られたような彼の生気のなさにぞっとしたが、自分を殺してしまうかのような猛々しさも恐怖だった。
 一拭きで布は泥を拭いたようになった。シルビーは水差しを傍らに置き、アランの肌を拭いた。恐かった。何もかもが恐かった。布を水に浸す、絞る、拭く。その繰り返しの中に逃げ道を探すかのようにシルビーは繰り返した。
「もういい」
 乱暴に腕を引きアランはシルビーから顔を背けた。
「少し横になった方がいいわ」
 シルビーは立ち上がり彼のために場所を空けた。
「悪かったな、シルビー」
 アランは身体をきしませるように長椅子に横になった。だがその瞬間、彼は怯えた動物のように飛び上がりあたりを見回した。
「サーベルは?」
 身軽な動作で椅子の上に跳ね起きる様子は鍛えられた軍人のそれだった。だが顔は恐怖とも悔恨ともつかない何かに歪んでいた。
「サーベル? あれのこと? ちゃんとあるわ。あたしが持っていくわ」
 シルビーは長椅子を回りテーブルの上に乗せたサーベルを両手に持ちアランに差し出した。彼は腕を伸ばしシルビーからそれを引ったくると気が付いたようにあやまった。
「すまない」
 怯えはほっとしたような表情に変わり彼はそれを抱きしめた。そしてそれを背中の下に敷き長椅子に横になった。
「悪いが今晩泊めてほしい」
 横になったままアランが言う。
「かまわないよ」
 男は相変わらず放心していたが、幾分まともになったように見えた。シルビーの返事を聞くと彼は腕を組み目を閉じた。
 長椅子の縁に腰を下ろしシルビーはアランを見た。今までどこにいたのだろう。こんな弾傷を負って…
 サーベルの上に寝ながらそれが心地よいかのようにアランは目を閉じている。疲れきった様子が痛々しい。シルビーはアランのの顔を覗き込み髪に手を触れようとしてそれを止めた。今までアランによってかき消されていたことが蘇ってきた。心が認めることを拒否している。
 ―――フランソワが死んだ。
 それはどうしたって認められるものではなかった。酷いじゃない、アラン。貴方はフランソワを連れてきて私に会わせた。貴方が私達を引き合わせたのに… 今になって彼が死んだと言うの?
 悲しみと恐怖に押しつぶされそうだ。どうしてくれる!
 脳裏にテュイルリー宮とバスティーユの光景が浮かび上がる。戦闘の後の血や布切れの散乱した様子。フランス衛兵を探してパリの街をさ迷いながら聞いた人の泣き声。父や夫を悼む声。
 大声を出して叫びたい。だが長椅子に横になった男がそれを阻止する。彼は傷つき正気を忘れている。彼が目を開ける。その顔に涙が注がれる。シルビーの涙だった。ぽつぽつと落ちる涙を顔に受けながらアランは熱を持った目でシルビーを見上げた。
(フランソワの他にも人が死んだんだね)
 抜け殻になったアランの様子はそれを物語っていた。シルビーの涙を受けながら、どこか不思議そうな顔をしてアランはそれを見つめていた。



Fin




続きの話があります。

「すずらん」













































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