7007  9/15

邂   逅




登場人物
フェルディナン ジェローデル家の長男。
イレーヌ 大叔母。
『五月の薔薇』 『移り香』に登場しています。

注)一部内容に性描写含む官能表現があります。




 舞台の中央には薄絹を腰にまとっただけの男の姿。異国を思わせる楽の音は物悲しい響きで始まる。滑り出すように動き出す肉体は物語の序章を語りだす。
 筋肉のついた胸と無駄な肉の一切付かない脇腹。腕は長く、首から肩にかけてはなまめかしい程の色香が漂う。顔も身体に見合うほどに美しい。
 高い鼻梁に端正な唇。憂いを秘めた表情。肌は浅黒かったが、淡い瞳の色からして何かを塗っていると思われた。浅黒い肌には一つ一つの筋肉の隆起をはっきり見せる効果がある。
 動きと共に形を見せる筋肉。音楽は力強さを加え、男の動きは激しくなる。しなやかに反る背中と薄い布がかかっただけの尻。躍動を生み出す腿は太く、その下に細く長い脛が続く。足先までが美しかった。芸術品と言って良かった。神が創った完全なる肉体。周囲から賞賛のため息が漏れる。
 この世の者とは思えない男。絵画の中から抜け出てきたか。誘い込むような仕草は人心を惑わす悪魔にも聖なる天上人のようにも見える。静止すればまるで彫刻のようだ。だが男が跳んだ一瞬に生身の人間の身体を見た。足の裏だ。そこは常に裸足でいるのかと思わせるほど硬そうに変色していた。神話に出てくる神などではない。それはきつい労働を生業としている者のそれであった。
「どう? 貴方に似ている?」
 隣に座ったイレーヌが問いかける」
「さあ」
 曖昧に返事をしながらフェルディナンは壇上の男を見つめ続けた。



 パリの外れにジプシーの一団が来ていた。各地を転々としながら音楽や踊りを見せ、その日の糧を得る流浪の民。まるで人目を避けるかのように張られた古ぼけたテント。彼らは無欲で、ひっそりと来ていたに過ぎなかった。だがそこは次第に人々の口に上り、今では毎日狭いテントの中に満員の客がひしめき合うようになっていた。
 世情は日増しに不安定になり、パリの治安は悪化の一途を辿る。小麦の不作は何年も続き、街には浮浪者が溢れていた。だが国が危機に瀕している実感はまるでない。なぜならベルサイユでは毎晩のように贅沢な晩餐が開かれているからだ。
 徹夜の舞踏会に観劇、音楽会。愛すべき退屈の毎日。そんな中、世の中がどうもおかしいと気づかせてくれたのは弟だった。近衛連隊長を勤めるヴィクトールが国王の命令に従わず兵を引いた。横暴な平民議員を三部会の会議場から追い出すようにとの命だった。軍隊が国民の代表を銃器を使い追い出す。それも驚きだったが、職務に忠実な弟が国王の命令に従わなかった。それに何よりも驚いた。軍人としての自殺行為であった。
 普段考えもしないことが起こる残酷。確かに世の中がおかしな方向に動いていた。知らせを聞き、厳格な父が真っ青になり、母は気を失った。
 騒動の只中に帰ってきた弟に父は真実を聞き出すべく問い詰めたが、弟は幾分悲しそうな顔をしながらもひどく冷静で、どんな処分にも従うと言った。断頭台も覚悟していると。ただ兵を引いた理由については何も語らなかった。
 今まで家の体面を汚す者に対しては容赦ない厳しい制裁をしてきた父だった。弟は謀反人としての扱いを受けるかもしれない。そういった者を家から出すわけにはいかない。弟は断頭台に上るよりも早く、父の手にかかり死ぬ。そう思った。その証拠に弟の謀反の知らせを聞いた母は父に取りすがり、弟の命乞いをして気を失った。
 だが父は弟を秘密裏に逃がそうとした。これが第二の驚きだった。弟にその気がないのに、父は亡命の手はずを整え、無謀にも弟の身代わりを仕立て上げようとした。
 父に呼ばれて行くと弟の軍服を手にした男とすれ違った。館で数度見かけるだけの顔。氏も素性も知らないが、顔だけは知っている男。闇の仕事を担う男だ。自殺か他殺か。まもなく弟の軍服を着た、顔の判別のつかない死体が上がるのだろう。
「いいか、フェルディナン。ヴィクトールにこれを飲ませて運び出すのだ。お前はあれにしばらく付いていろ。あれが正気を取り戻すまで国外に押さえつけておくのだ」
 父から渡された小瓶。眠り薬だと察しはついた。
「父上、ヴィクトールは…」
 小瓶を手の中で転がしながら、確かにこうでもしなければヴィクトールはベルサイユを離れまいと思った。目を上げ父を見る。そこにはジェローデル家の当主として家督を譲った後も君臨しようとする厳格な男ではなく、我が子を守ろうとするただの父親がいた。

「兄上、父上と母上をよろしくお願いします」
 窓辺に立ち、暮れ行く空を見つめながら弟はそう言った。近衛連隊退却の理由を聞いたが弟は答えなかった。
「私にも信念があります」
 端正な横顔を見せ、どこか遠くに視線をやりながら弟はそう言った。

 ヴィクトールを眠らせる夜になって処分の知らせが入ってきた。年俸の召し上げと降格処分で命については咎め無し。温情だった。



 踊り手に目を注ぐ者達は、薄いテントで外界から遮断され、陶酔の世界に浸っている。舞台を見に来るのは舞台そのものの魅力もあるが、忘れたい事柄を忘れるためにくる事もあるのだと悟った。
 弟の一件で父はすっかり老け込んでしまった。宮廷一の洗練された遊び人で、数々の浮名を流してきた父。
 父からは女と家庭の扱い方を教わった気がする。恋愛を途切らすことのない毎日を送りながら、母を嘆かせることは無かった。父は母も愛していて、母の心と身体を我がものしていたのだと思う。
 父に伴われ大人の社交場に行ったこともある。社交場に子供を連れて行くことは非常識とされていたが、概ねどこでも歓待された。ジェローデル伯爵はご子息が大層自慢らしい。皮肉交じりに何度か聞いた言葉だ。大抵は大人達から一様にちやほやされた後、すぐに帰されるのだが、子供の好奇心は大人の世界を垣間見ていった。
 男は女を求め、女は男を求める。そういった事柄が知らず知らずのうちに刷り込まれていった。魅力のある者により多くの異性が集まる。それに興奮を覚えた。数多の美しい者たちが集まる場所で、父は誰よりも優遇され、最も求められる男であった。幼な心に密かな優越感を抱いたものだ。
 多くの愛人を持ち、年を重ねても愛欲について現役を退くことはなかった。その父に見たくは無かった老いを見る。


 舞台は一人だというのに華やかだった。男は生まれ持ったものを惜しみなく見せ付ける。男の肉体は完成されていたが、青年になったばかりの若さと見て取れた。彼はどこかアンバランスだった。客を扇動するような情熱的な動きをしながら、どこか冷め切った表情を垣間見せる。動きの一つ一つに噴出するような色香を漂わせながら、世捨て人のように悟りきった表情をする。その奇妙な交差。
 右隣に一つ席を開けて座る見知らぬ女がため息をついた。彼女は己の胸を揉むように鷲づかみにしながら、扇を口元に当て息を殺していた。舞台の男は扇情的な仕草を客席に投げかける。扇の陰から見える女の顔。目を細め恍惚の表情だ。時折こらえきれずに息を漏らす。その姿は男を求めている時のそれだった。
「似ているわ。若い頃の貴方にそっくりね。でも貴方はもっと不遜で、世の中を貪欲に吸収するエネルギーに満ちていたけれど」
 左に座ったイレーヌが独り言のようにつぶやく。顔をそちらに向けるとイレーヌと目が合った。
「噂を聞いただけでは信じられなかったわ。でもこんな事があるのね…」


 舞台に目を戻すと音楽が止んだ。男も女も一斉に立ち上がり拍手をした。割れんばかりの拍手に包まれ顔を上げた男は初めて年相応の笑顔を客席に向けた。
 興奮とざわめきは覚めやらず、客席は良いものを観た時の常で心地よい熱気に包まれていた。余韻に浸る観客達があちらこちらで興奮したように囁き合っている。普段はどんな客で満たされる小屋なのか知らないが、質素で粗末なテントの暗がりには星々のごとく宝石がきらめいていた。
 一つ席を開けた隣の女がとろんとした目を向けてきた。その視線はしばらくうつろであったが、何かに気づいたのか、たちまち焦点を結んだ。
「ジェローデル家のフェルディナンさま?!」
 彼がうなずく間もなく女の顔は真っ赤になった。
「あの…」
 女はもぞもぞと身体を動かした。一つ開いた席に移ろうか思案しているようだ。だが音楽がそれを阻止するかのよう鳴り出し、次の出し物が始まった。女はしぶしぶ前を向いた。だが舞台にどうも身が入らないようで、ちらちらと視線を投げかける。それを横目で観察しながら彼は遠い日を思い出していた。




 あれはいくつだったろうか、社交界にデビューしてそれ程たってはいなかった。
 フェルディナンを待ちきれないベルサイユの社交界は彼のデビューを待ち構え、彼が披露目されるやいなや、あっという間に彼を大人の世界にいざなってくれた。ベルサイユの貴婦人達は親切と情熱を持って彼に女の心と身体を教えてくれた。
 肉の快楽を知りそれに溺れていく日々の中で、次第に彼は一人の伯爵夫人と懇意になっていった。夫人はフェルディナンよりかなり年上だったが、たおやかで繊細で非常に若く見えた。憂いのある悩ましげなさまがフェルディナンの心を捕らえた。彼女と恋仲になるのに時間はかからなかった。だが肌を合わせるまでには至らなかった。
「夫が‥」
 二言目には彼女はそう言った。これが彼女と肉体関係を結べない理由だった。
 若くして結婚した伯爵夫人は年の離れた夫を恐れていた。自由恋愛が当たり前の貴族社会でも妻の恋愛に寛容になれない夫がいるものだ。彼女は夫から、不貞を働いたら、生きたまま壁に塗りこめやると脅かされていた。或いは逆さにして何日も死ぬまで吊るしてやると。顔色の悪い伯爵は、歴史の中にある、妻を残虐に殺した例をいくつも引いて事あるごとにそう言った。
「あの人は異常なの。でも夫以外の男を知らずに死ぬなんて嫌。一度でいい、愛する男の腕に抱かれて死にたい」
 恐れながらも事あるごとに伯爵夫人はそう言った。哀しそうに目を伏せ、彼女はフェルディナンの前で涙を流した。
 宮廷では人目があって会えない。フェルディナンは考えを巡らせ、パリに場所を用意した。芝居小屋の片隅。別々に芝居を見に行き、あらかじめ店の支配人に用意させた部屋で落ち合う。がらくたが積み上げられた狭い部屋で貪るように抱き合った。
「ああ、フェルディナン」
 少女のように楚々とした伯爵夫人のどこにそんな欲があるかと思うほど彼女は貪婪であった。だがそれは男にとって興奮する材料でしかなかった。外見の見栄えと肉欲の乖離にフェルディナンは夢中になった。ドレスをはだけ、下着をまくり、全裸より淫らな格好にして女の羞恥を誘う。捲り上げられ、むき出しにされた女の下半身が、がらくたの隙間に立てかけられた鏡に映っている。もっとはっきり映る位置に身体を変え、女にそれを教える。女は息をとめ顔を赤く染めたが、隠すことなく自ら足を開いた。男の欲望が痛いほどに刺激される。女はさらにそれを煽るかのように自らの手でそこを愛撫した。


 綱渡りのような逢瀬はそれだけで興奮した。だがそんな綱渡りをしなくても、間もなくフェルディナンは伯爵夫人の家に通うことが出来るようになった。伯爵が病気療養の為、遠くの領地に転地することになったのだ。だがいつ伯爵の耳に入るか知れない。人目を忍ぶ必要はあった。
 まるで死んだ館のようだ。館に足を踏み入れフェルディナンは思った。ひと気のない屋敷はかび臭く、動物や鳥の剥製がいたるところに置いてあった。
「召使いには暇を出したの」
 見張りに残されていた者には金をやり出ていかせたと言う。館には夫人が抱える数人の侍女だけが残った。そこで二人は朝も昼もなく抱き合った。
 愛の行為の後、いつも伯爵夫人は呪われた身の上を嘆き、泣いた。夫人の願いはただ一つ。夫が生きて戻ってこないように‥ 彼女は夫の命が尽きるようにフェルディナンの胸で毎晩祈った。呪詛のような呟き。あの人が死ななければ私が死ぬ。死を願った後、悔いるように十字を切る。そしてまた死を願う。
 肉欲に耽る日々は数ヶ月に及んだ。昼も夜もなく女を抱いた。愛に飢えた女の欲望は際限が無かった。だがそれに応えるのは若いフェルディナンにとってたやすかった。食べる事と眠る以外は淫らな行為に費やした。それは伯爵夫人の恐怖を薄れさす。だが転地が利いたのか、伯爵が戻ると知らせを寄こしてきた。彼女はこの世が終わったとばかりに嘆き、フェルディナンにもう来ないようにきつく言い渡した。落ち着いたら偽名で手紙を出すわ。貴方は来ないで。絶対に来ないで。
 悲痛な叫びのような伯爵夫人の願いを聞き入れ、フェルディナンは数ヶ月待った。宮廷で伯爵の姿を見かけることがあったが、夫人の姿を見ることはなかった。伯爵は前よりずっと顔色が良くなり、快活になり、夫人の自慢話をしていた。その姿は良い知らせか、悪い知らせか‥ 気を揉んでも伯爵夫人から何かを知らせてくることはなかった。

 ある日宮廷の廊下で男達の一団がシャンパンの栓を抜き酒を酌み交わしていた。何か祝い事のようだが行儀の悪い。フェルディナンが傍を通り過ぎようとした時だった。すっかり赤くなった伯爵がフェルディナンの方に向かい言った。
「これでようやく私も父親になった!」
 幾分良くなったとはいえ、まだ悪い伯爵の顔色は酒のせいで赤黒く、ますます醜く見えた。
「一ヶ月も早い産み月だったが、丸々とした綺麗な子だ」
 伯爵はむくんだ顔をほころばせながらシャンパンの栓を抜き、心もとない足取りで周囲に詰めかける男達にそれを振舞った。
「随分年をとった父親だな」
 男達に揶揄されながら、それでも伯爵は嬉しそうだった。
 伯爵夫人は身ごもり出産していた。知らなかった。彼女が姿を隠すようになったのは伯爵に監禁されているからだという噂はあったが、身ごもっているという噂はなかった。フェルディナンは焦りとも何ともつかない気持ちを抱え、宮廷の廊下を歩いた。
 何度か使いの者に探らせた。だが館に彼女はいないという返事だった。ふっつりと連絡を途絶えさせた女… 気を紛らせるためにいくつかの恋愛をしていたが、彼女のことを忘れた事はなかった。それどころかずっと気にかけていた。なぜ一言も連絡がないのか… 身ごもり、子を産むと、女は変わってしまうのだろうか。


 ある日突然手紙が来た。そこには日時が示され、その日に来て欲しいとだけ記されていた。差出人は知らない女の名前。だが筆跡は伯爵夫人の物だった。偽名で手紙を書く。彼女とはそう約束をして別れた。愛の言葉一つ無いひどく事務的な手紙だったが、心は昂ぶった。


 フェルディナンは伯爵に会っても良いように、子息誕生祝いの用意を完璧にして訪問した。だがその心配は無用であった。館に伯爵はいなかった。
 陰気な館は相変わらずだったが、案内された場所はそこだけ別世界のような明るい部屋だった。部屋には真新しい小さなベッドが置かれてあり、優しい風が真っ白なレースを揺らしていた。ふんだんの日差しと柔らかい色合いで統一された上品な家具。そして静かに佇む伯爵夫人。
「ようこそ」
 一瞬だけ懐かしそうな表情を見せたあと、彼女は幼な子を抱き上げフェルディナンの傍にやってきた。
「抱いてあげて」
 それだけ言うとフェルディナンの腕に子供を預けた。突然の事に戸惑い、赤子のあまりの小ささに取り落としそうになりながら、フェルディナンはそれでも腕の中の子供を見た。甘い匂いをさせ、目をぱっちりと開け、赤子は彼を見つめた。明るい澄んだ瞳が印象的だった。
「ありがとう」
 彼が何を言うかまで聞かず、彼女は子供をフェルディナンの腕から抱き取った。
「そういうことなの。もうお別れね」
 母となった女はこれほど冷たいのか。自分は彼女の言う通り連絡も取らず、ひたすら待ち続けたのに…
 フェルディナンは祝いの品を脇のテーブルに置くと、赤子を抱く伯爵夫人の顔を覗き込んだ。
「私は今まで貴女のことを一日も忘れず想い続けていました。子が出来たからといって、今更別れることができますか?」
 伯爵夫人は彼に背を向けると赤子を小さな天蓋の付いたベッドに戻した。それを見届け、フェルディナンは後から女の胸に手をまわした。女の胸はずっしりとした重みを持ち、ガウンの下は分厚い布を押し込んだコルセットで覆われていた。
「だから別れるのよ。この子のためよ」
 男の指がゆるいコルセットを外しにかかるのを阻止できず、伯爵夫人は苦しそうに言った。ガウンは肌蹴られ、コルセットは外された。女の胸が露わになる。床に落ちた布から甘い匂いが漂ってくる。より大きさと重みを増した女の胸を揉みながら、フェルディナンは女のうなじに口づけた。
「本心を言ってください。貴女の本当の気持ちを…」
 胸を揉まれながら、伯爵夫人は涙に濡れた声で言った。
「本心よ。もう会えないの。本当よ。これを最後にして… もう来ないで…」


 それからさらに数ヶ月経った。伯爵夫人は社交界にも出て来ず、まるで館に引きこもったような生活をしていた。それに対し伯爵は毎日宮廷に顔を見せ、誰かれかまわず息子の自慢をしている。それはフェルディナンを苛つかせた。会えないと会いたくなるものだ。そっけない女ほど追いかけたくなる。冷たくされると振り返らせずにはいられない。

 ある日、伯爵夫人を宮廷で見かけた。国王主催の演劇会だった。何ヶ月ぶりだろう。だが微笑みかけるフェルディナンから逃げるように伯爵夫人は控え室に引っ込んでしまった。
 我慢も限界だった。フェルディナンは夫人の控え室まで行くと扉に手をかけた。鍵が閉まっている。構わず扉を叩くと鍵の開く音がした。
「フェルディナン‥」
 控えめに隙間が開き、伯爵夫人が顔を見せた。彼女は警戒するように廊下に目を走らせるとフェルディナンの腕を引き、部屋の中に引きずり込んだ。
「来ないでって言ったでしょう!」
 再び鍵を閉めながら夫人は振り返り、顔を上げ彼を見た。涙声になっている。その声の中には押さえきれない恋慕があった。伯爵夫人は求めている。自分を欲しがっている。
「貴女は冷たい人だ」
 脅かす時のように歩み寄り、女を見下ろした。伯爵夫人は眩しそうに数回瞬くと下を向き、息を吐いた。大きく肩で息をしている。剥き出した肩に、豊満な白い胸。ふたまわりも大きくなり熟しきっている。男を誘い込むような深い谷間。
「私がどんな想いで長い間待ったと思いますか?」
 伯爵夫人になおも歩み寄った。彼女は下を向いたままそこに佇んでいた。フェルディナンの胸が女の肩に付いた。彼女は何も言わない。
「貴女を傷つけることがないようにと自分を制してきました。でももう限界です」
 フェルディナンは伯爵夫人の肩を抱くと強引に部屋の中央に運び、長椅子の上に女を叩きつけた。長年積もった情熱を女の身体に注ぎ込まないと我慢がならなかった。
「フェルディナン!」
 押し倒され体制を崩した女に乗りかかる。フェルディナンより早く伯爵夫人は彼の首に腕を回し唇を貪った。その激しさはいかに夫人が我慢を強いられてきたかを語っていた。
 唇を、舌を、執拗に絡めとる女。息が熱い。女が求めている。その事実にフェルディナンは興奮した。伯爵夫人は拒絶の堰を固めきれなかった。
 フェルディナンは女を長椅子の背に押し付け、ドレスを捲り上げた。下着を剥いだ身体の奥に手を這わせるとまるで数時間も前からそうであったように女のそこは濡れていた。
「こんなになるまで貴女は‥」
 責めるように女を見つめながら、フェルディナンはキュロットに手をかけ昂ぶったものを取り出した。狭い場所から開放されたそれはいつにも増して大きく見えた。硬さを確かめるように握り締め、愛撫も何もなく女の身体の中に突き入れた。ぬるりとした暖かい感触。女の身体は何の抵抗も見せずに彼を受け入れる。 
 反らせた喉の白さを見せながら伯爵夫人は息を吐いた。それは焦がれたものを得た時に女があげる喜びの吐息だった。
 女の足を大きく開かせる。まだ日のある明るい室内。長い間じらされた恨みを晴らすかのように女を乱暴に扱った。その仕打ちに女は歓喜する。男の肉体でこすられるのを欲するかのように自ら動く腰。官能を知りつくした身体は貪欲だった。それでいながら、女は声を出すまいと必死でこらえる。身も心も溺れながら、どこかで何かを恐れているようだ。だが息は上がり続け、時に小さな声が漏れる。それは男の嗜虐心をそそった。動きは激しくなる。女は声を出さない。部屋には吐息と、密着部分から絶え間なく漏れる湿った音だけになった。
 突然扉が鳴った。伯爵夫人は弾かれた子兎のように飛び上がるとフェルディナンから身体を離し、素早い動きで彼を続きの間に押し込んだ。
「隠れて!」
 潜めた声は悲痛だった。伯爵夫人は続きの間にある背の高い衣装入れを指し示した。そして髪を撫でつけドレスを整えた。フェルディナンは続きの間から顔を覗かせ様子を窺った。
 部屋の扉は怒ったように打ち鳴らされる。扉の前に立った伯爵夫人が振り返った。フェルディナンは部屋から顔を引っ込めると、衣装入れに半身を入れながら様子を窺った。
 扉を開く音と誰かの声がした。男の声だ。きっと伯爵が来たに違いない。低い声で話す声が聞こえる。だが何を話しているかまでは聞こえない。耳をすますが、二人のやり取りは聞こえない。
 やがて部屋は静かになり、物音一つ聞こえなくなった。しんとした静寂。しばらく隣室で待ちながら、フェルディナンは頃合いを見て部屋を覗き込んだ。
 伯爵夫人が長椅子の上に膝をつき、座り込みながら片手で顔を覆い泣いていた。
「伯爵が‥?」
 声をかけるフェルディナンに答えず伯爵夫人は泣き続けた。
「殺されるわ。貴方も私も‥ だから、会えないのよ。会ってはいけないの」
 夫人の指の隙間から涙がこぼれた。伯爵が嫉妬深いと噂には聞いていた。だがそんなことで妻を殺すだろうか。彼女は恐れすぎている。
 フェルディナンは伯爵夫人を見下ろした。乱れたうなじの毛が数筋、汗で首に張り付いている。子を産んだ女は何と美しく艶やかで淫靡な香りがするのだろう。もっと欲しい。彼女とてそう願っているに違いない。
 自慢の妻を伴い観劇に訪れた伯爵は一人で見る羽目になったようだが、それでいい。フェルディナンは女を抱き起こすと後ろを向かせ、女の身体を長椅子の背にもたせ掛けた。
 女は抵抗しなかった。まるで全身の力が抜けたように彼の動きに従った。膝を椅子の上につかせ、ドレスを撒くりあげ、女の尻を出す。フェルディナンは両手で肉付きの良い真っ白な尻を引きつけながら、先ほどまで女の身体に埋まっていた自分の肉体の部分を再び取り出した。それは大きさと硬さを保ったまま、女の体液をまとい濡れて光っていた。フェルディナンは目の前の、先ほどまで男のものを入れ、柔らかくとろけきった女の局所にそれを突き立てた。卑猥な音を立て、男の肉が吸い込まれていく。その光景はひどく淫靡だった。
 制御できない嗜虐に駆られ、激しく突き上げながら、フェルディナンは女の胸に手を回した。乱暴な動作で女の胸当てを外し、コルセットの中から乳房を掴み出した。それを両手で揉みながら女の身体を突き動かした。
 彼女はもう恐怖を感じていない。ここがどこなのか、自分がどうなっているのか分からないかのようだ。気にしていた髪の乱れも構わず腰を振る。声を上げる。
 長椅子の上で体位を変えながら、女を幾度目かの絶頂に導いた。女は男を呑み込み、昇りつめ、痙攣し、弛緩する。そして再び貪欲に次を求める。それはまるで飢えた者がもう二度と飢えを感じないように求めるかのようだった。許されるのは終演までの時間。その間にどれだけ女を満たせるか。若い彼は歓喜を持ってそれに挑んだ。

 満足だった。フェルディナンは立ち上がることの出来ない伯爵夫人を抱き上げ続きの間の寝台に運ぶと、優しい言葉をかけ、口づけ、もう一度愛を囁き、部屋を出た。
 また会ってくださいと言いながら、フェルディナンはもう伯爵夫人に会うのはやめようと思った。彼女は可愛い子供を授かった。これからはしばらくは母として過ごすのが良いのかもしれない。もし彼女が関わりを持ちたければそうすることに異存はないが、もう無理強いはしない。そう誓った。


 そして数日後、ベルサイユに伯爵家の悲劇がもたらされた。


 最初に見つけたのは伯爵家の庭師だった。彼は綺麗に刈り込まれた芝生の上に人間の指が落ちているのを見つけた。それは指輪をはめた女の指だった。
 叫び声を上げながら屋敷に駆け込んだ庭師は、館の人間に今見た事を知らせようとした。だが誰もいない。庭師は狂ったように階段を駆け上がるとようやく探し当てた年老いた執事にそれを知らせた。執事は暗い顔で頷いたきり何も言わず、そこにしばらく座り込んでいた。やがて彼は庭師の腕をつかみ伯爵の部屋を見に行くように懇願した。
 青ざめた顔を小刻みに震わせながら血走った目を向ける執事に負け、庭師は恐る恐る伯爵の部屋を覗きに行った。部屋の扉を叩いても返事がない。扉に手をかけるとそれは難なく開いた。鍵はかかっていなかった。
「旦那さま」
 呼びかけても返事がない。部屋には誰もいなかった。
 いつからこんなに人が減ったのだろう。庭師は館を見回してぞっとした。裕福な伯爵家に見合わぬくらい人がいない。かつては世話をする侍女や下男が沢山いたというのに…
 庭師は次に執事と共に伯爵夫人の部屋を見に行った。そこで彼は寝台の上で血だらけで倒れている伯爵夫人を見つけた。叫び声をあげながら部屋を駆け出した庭師はそのまま館も飛び出した。


 警察が調べた結果、寝台の上の伯爵夫人は右手の指が三本切り取られ、胸を短剣のようなもので突かれて絶命していた。傍には凶器とみられるものは何も落ちていなかった。
 芝生の上には指が三本それぞれ離れて落ちており、切り取った指を一本一本窓から投げ捨てたと思われた。誰がやったのかは分からない。だが館の者は昨夜遅くに伯爵の怒鳴り声と伯爵夫人の叫び声を聞いている。客は無い。訪ねて来た者はいない。外部から何者かが進入した形跡もない。
 執事はこう証言した。夫婦間のいさかいは日常のことだった。ここ数日は特に酷かったが、止めに入ると伯爵の怒りはさらに増すので館の者は声を潜め見守るしかなかった。
 伯爵は行方不明だった。そして行方不明は伯爵だけでなかった。伯爵夫妻には幼子が一人いたが、彼も行方不明だった。伯爵夫人に縁の者が遠方から現われ、それこそ狂ったように一粒種を探したが、見つからなかった。きっと伯爵も息子も死んだに違いない。人々が噂をする只中にセーヌ川で伯爵の水死体が上がった。
 伯爵が夫人を殺し自らも死を選んだと推測された。惨劇にベルサイユ中が震え上がった。人々は伯爵の異常ぶりを例を挙げて囁きあった。ここにきてフェルディナンは伯爵夫人の怖がりようが行き過ぎでも何でも無いことに気がついた。
 今まで自分は彼女の何を見てきたのだろう。愛を請い、情熱を傾ける相手としか見ていなかった。もし彼女の苦しみや恐れを少しでも思いやっていたら、これほどの悲劇は防げたかもしれない。自分の行為が伯爵の怒りを買い、伯爵夫人の命を奪ったとしたら… そう思うと後悔と自責の念で焼かれるようだった。だが何ができよう。伯爵夫人はもういない。神父に懺悔を試みようとしたが、それで罪が赦されるとは思わなかった。
 フェルディナンは恋愛に逃げた。じっとしていると伯爵の亡霊が追いかけてきそうだった。伯爵夫人の嘆きも聞こえた。それらを振り払うように彼は恋愛に没頭した。来る日も来る日も女を求め、女を抱き、女と寝た。恋愛は恋愛の為でなく、恐れを紛らわすものでしかなかった。フェルディナンの狂ったような女遍歴はベルサイユ中で歓迎された。女には癒す力がある。女といる時は悲しみも恐れも―それは一時的なことであったが―忘れることが出来た。
 伯爵夫妻の息子の行方は依然判らなかった。伯爵の死体の上がった場所から遠く川をさらってみたが子供の死体は上がらなかった。幼子は行方不明のままだった。



 舞台が一段落したところでフェルディナンは席を立った。
「どこへ行くの?」
 問いかけるイレーヌに彼は答えた。
「少し暑いので外の空気を吸ってきます」
 テントの外には薄闇がせまっていた。改めて見回してみるとパリの外れといっても街の気配の無いうっそうとした森の中だった。そこかしこに質素にやつした貴族の馬車が止まっている。御者達が手持ち無沙汰に話をしたり居眠りをしている。こんなところでよくあれだけの客が集められたものだ。フェルディナンは感心しながらも突然浮かび上がってきた古い記憶に戸惑っていた。
 恐れと後悔から厳重に封印し、記憶の底に沈めたはずだった。思い出すことも叶わないほど深く沈めたはずだった。何故思い出した。扉は一旦開くと思いがけないほど鮮明に像を結んだ。
 空に、ようやく見えるほどの淡い月がかかる中、舞台を終えた者達が別のテントに入っていく。あそこが彼らの生活場所なのだろうか。フェルディナンはテントの中に吸い込まれていく列をぼんやりと眺めた。
 あの踊り手に会いたい。もう一度、間近で彼を見たい。衝動が湧き上がる。記憶を呼び覚ました者…
 フェルディナンは列がテントに入ってしまうのを見届けるとそこに歩み寄り、テントの重なりに手をかけ、中を覗き込んでみた。中は暗かったが明かりがところどころ灯され、衣装や楽器や舞台で使う道具といったものが雑然と置かれているのが見えた。中央に廊下のような通路が敷かれ、両脇はそれぞれに仕切られた小部屋になっている。ただ仕切りといっても、薄い粗末な布で区分けされただけの簡単なもので、そこには衣類や洗濯物なども一緒に掛けられていた。
 彼の部屋はどこだろう。探すともなく見ていると先ほどの若者が一つの布影から出てくるのが見えた。薄い布から生まれたように出てくるさまはそれだけで絵のようだった。決して綺麗とはいえない空間で、そこだけ別の世界が展開するようだった。
 案の定、彼の肌は白かった。顔と上半身だけ、塗ったものを落としている。癖のある柔らかそうな毛が乱れて肩にかかっている。近くで見ると飾らないだけ舞台とは違った魅力があった。
 見つめるフェルディナンの気配を感じたかのように彼がこちらを向いた。
「何?」
 彼は短く問いながら、警戒するような目でフェルディナンを見た。淡い透き通った瞳に真正面から見つめられフェルディナンの心臓が鳴った。いつもイレーヌ叔母が言っている。ジェローデル家の瞳。それに近い眼を彼はしていた。
 不意打ちのように彼と向き合いフェルディナンは心臓が高鳴るのを押さえ切れなかった。疑惑は確信に変わっていく。いつも彼に会っていた。そう鏡の中で…
「先ほどの舞台だが‥ とても、素晴らしかった。だからそれを言おうと‥」
 言いながら彼に近づいた。近づきながら記憶を辿る。

『抱いてあげて』
 伯爵夫人に言われ、腕に預けられた小さな赤子。あれは誰だ?
 今になってみて、何故あの時彼女が赤子に会わせ、腕に預けたのかが分かった。焼けるような悔恨が襲う。彼女の意図に気づくこともないほど若かった。愚かだった。
 赤子はつぶらな瞳で見上げていた。その瞳はどんなだった…? 腕に抱いた赤子の瞳はどんな色をしていた? いつもイレーヌ叔母が言う。ジェローデル家の男達の瞳は特別だと。
「ありがとう」
 短くそれだけ言うと踊り手は得意そうに笑い、フェルディナンに対峙するように胸を張った。
「きみは‥ここで生まれたの?」
 何故そんなことを聞く。おかしな質問だと彼は思うだろう。だが聞かずにはいられなかった。
 フェルディナンの質問には答えず、踊り手は今度は投げやりに笑い、視線を反らせた。
「ジョルジュ!」
 突然彼が出てきたところと同じ場所から女が現れた。衣装を解いていない。きっと舞台から降りたばかりなのだろう。くっきりとした眉に大きな黒い瞳。黒い髪。生まれ持った浅黒い肌。きらびやかな衣装の映える美しい女だった。
 彼女はフェルディナンの前に、若い踊り子を守るように立ちはだかった。
「あなたは誰?」
 警戒するような瞳でフェルディナンを見ながら、彼女は後ろを振り返り、踊り手を見た。女はフェルディナンと若者を交互に見比べていたが、フェルディナンの前に立たまま、両手を大きく広げた。それはまるでそれ以上彼を近づけないようとするかのようだった。
「僕達の舞台を喜んでくれた」
 後ろから若い踊り手が遠くに視線を泳がせたまま言った。
「そう」
 短くそれだけ言うと女は後ろを振り返り、美しい踊り手に口づけた。まるで見せ付けるかのように彼女はしばらく彼の唇を離さなかった。
「ジョルジュ、中に入って」
 まるで母親のように彼女は言い、踊り手を仕切りの向こうに戻した。不適な視線を投げつける女は一族の長老のような貫禄があったが、ジョルジュと呼ばれた踊り手といくつも違わないほど若かった。
 しばらく観察するようにフェルディナンを見ていた女が身を翻した。フェルディナンは仕切りの向こうに隠れるようとする女の肩をつかみ引き寄せた。
「すまない。どうかこれを」
 咄嗟に上着の内側から嗅ぎ煙草入れを取り出した。
「舞台のお礼に、これを彼に渡してくれないか?」
 女の手にそれを押し付けた。女はそれに視線を落とした。一流の職人が何ヶ月もかけて作ったものだった。金や瑠璃やその他考えられるだけの贅をつくし、技術の粋を集めた芸術品だ。それは貴族の財力と趣味を誇示するものだった。内側には金でジェローデル家の家紋が入っている。
 女は、蓋とそれぞれの側面に描かれている絵を興味深そうに眺めていた。これを彼に渡してもらい、どうしたいのだ。自分がどうしたいのかフェルディナン自身にも分からなかった。ただこのままではいられなかった。
 女は興味と警戒を持った瞳でそれを見回している。だが受け取ると言わない。一通り吟味した女がそれを突き返すのを恐れ、彼はもう一度上着を調べた。
「そして、これはきみに…」
 上着の中に、贈り物として用意してそのままになっている宝飾品の存在を幸運に思いながら、フェルディナンはそれを差し出した。
「私に?」
 女は疑い深そうな瞳でフェルディナンを見ながら不敵に笑い、それを受け取った。
「きみも素晴らしかった」
 舞台のどこに彼女がいたか思い出せなかった。
「ありがとう。分かったわ。これをジョルジュに渡しておくわ」
 女の態度が急変した。彼女は約束するように嗅ぎ煙草入れを軽く振ると腰を屈め、謝意を表すように礼をした。
「今日は遠いところからお運びいただき感謝しております。またいつでもおいでください。一同歓迎したします」
 慇懃に形式ばった口上を述べると女も仕切りの中に姿を消した。

 立ち去ろうとしてフェルディナンは動けなかった。何の証拠もない。世の中にはひどく似ている他人がいるものだ。そんな経験もしている。だが彼は…
 フェルディナンの脳裏に、腕に抱いた赤子の姿が焼きついて離れなかった。消し去りたかった記憶なのに、なぜこんなにも懐かしいのだろう。胸が締め付けられるようだ… もう一度彼の姿が見たくて、フェルディナンは仕切りに近づいた。
 粗末な布で仕切っただけの隙間から中が見て取れた。
 若い踊り手は寝台とは言えない粗末な台に寝転んでいる。その足元に女が座り、水を入れたかめに布を浸し男の足を拭いていた。男の足を膝に乗せ、ゆっくりと丁寧に、愛しむように拭いている。
「誰なの?」
 女はもっと何か問いたそうだったが、それ以上何も言わなかった。女の問いに答えず、彼は手にした小箱をじっと見つめていた。台に寝転び、腕をまっすぐ天上に伸ばし、薄暗い光に掲げるようにしてそれを見ている。
 その姿は容姿よりも雄弁に語っていた。それはフェディナンの癖でもあった。
 睦みあった後、女と寝台でよく語り合った。互いに体を寄せ合いながらフェルディナンは腕をまっすぐ天井に向け、そこに未来があるかのように指し示す。女がフェルディナンの指先を追いながら夢を語る。行為そのものよりも愛を語る陶然とした時間が好きだった。
 高く差し上げられた手。それを見つめる男の瞳は真剣そうでありながら、どこか投げやりだった。舞台で見せたあの表情だ。
「綺麗ね」
 男の足を拭き上げた女が台の側に寄り添い、それを一緒に見た。女の肩が揺れ、髪が台の上に流れた。小箱が投げ出される。粗末な寝台の上で男と女は抱き合っていた。



Fin




Menu Back BBS


















































inserted by FC2 system