2003 8/11




目を開けると部屋に朝靄が入り込んでいた。
夏の匂いがする。
私は立ち上がり窓辺に寄り夜の名残りを微かに残す空を見上げた。
空は明けかけている。
窓を開け放ち、草木の匂いのする朝靄を部屋に入れた。
肌に心地よい白い靄が鏡にかかる。
私は鏡に歩み寄りその前に立ち自分を見つめた。

   私は美しいだろうか。

鏡とは私にとって身だしなみを整える道具でしかなかった。
私は手を差しだし鏡の硬い表面に触れた。
鏡の前で女達が何時間も過ごすのを見てきた。
彼女達は化粧をし髪を結い衣装を替えるだけでなく、ただうっとりとその中を見つめていた。
私は鏡に映った己の姿を見つめることはなかった。
してはいけないと思ったし興味もなかった。
私はもう一歩鏡に歩み寄った。

   アンドレ、お前にとって私は美しいか?

私は鏡から顔を離すと自分の心のありようが可笑しくて笑った。
私は美しく在りたいのだ。
アンドレ、私はお前にとって唯一無二の美しい存在でありたいのだ。
部屋にこれほど大きな鏡が設えてありながら私は今まで何を見てきたのだろう。
私は顎を上げ、服のボタンを一つ外した。自分の動作を見つめながらもう一つ…。
襟を広げ縦に切れ込む隙間を僅かに広げる。
素肌の上の絹は柔らかく、窓から入り込む微かな風をはらんで揺れる。
顎を上げ喉を反らし首筋から胸元までを指でなぞった。
胸元をゆっくり広げてみる。
紛れも無く女であると証明する二つの膨らみ、絹の下に手を入れそれを抱きしめる。
一時は嫌悪さえもした…

目を伏せ胸を抱く肩に髪がかかった。
私は髪を一束取り目の前に持ってきた。

   アンドレ、お前はこの髪を気に入っているか?

こんなふうに髪を手に取って眺めることなど今までなかった。
梳くだけで結うことも飾ることもないこの髪…
この手はどうだ。
私は両手を目の前に広げた。
剣を持ち手綱を引き絞る手だ。およそ優しい仕草などしたこともない。

お前の腕に手を添わせる。
その腕は自分と違う性を教える。
添わせた手をたどる間もなくそれは私を捕え力を込めた腕が背に回される。
抗うように差し出す指は波の中に沈む。
激流に流されながらお前の指を髪の中に感じ口づけを受ける。
この髪もこの手も胸も唇もお前を覚えている、感じている、求めている。
顔を上げると鏡の中に目を潤ませた女。頬がうっすらと上気している。
私は目を反らせた。

忘れかけていた記憶が呼び起こされる。
私は着ているもののボタンを全て外し両肩から袖を落とした。
体をひねり鏡に背を向ける。
肘で袖が落ちるのを押さえ鏡の中を見たが広がる髪で背中が見えない。
私は頭を振り髪を右肩に集めもう一度上体をひねった。
私はここに傷を持っていた。
鏡の中に映し出される背中。
左肩に古いものだとすぐにわかるもう白くなった傷跡があった。
腕が動くようになってからはこの傷のことなどすっかり忘れていた。
色は抜けていたがひきつったように盛り上がっている。思ったより大きい。
私はそこに手を廻し触ってみた。他とは違うはっきりとした感触が残る。
お前はこれを見てどう思うだろうか。醜いと思うだろうか。
お前がこんな傷の一つや二つで考えを変えたりしないことは分かっている。
分かってはいるけれど、初めてこの傷を残念だと思う。

私はもう一度鏡に触れてみた。冷たい硬い感触。
今まで鏡などろくに見なかった女が此処にいる。
私は自分が人からどう見られているかなど気にしたことはなかった。
まして自身の容貌がどんなであるかなど考えた事もなかった。

   でも私は美しくありたい。

今、心からそう願う。
お前にとって美しい女でありたい。
お前の手のふれるところはどこまでも清らかでありたい。
こんな気持ちは初めてだ。
私の中の奔流はお前に向かって流れ出す。
熱い。苦しい。切ない。
私はお前にこんな想いを長い間味あわせてきたのか。
人を愛するという事はこんなにも焼けつくような痛みを伴うのか。
私の中の奔流は喉の渇きにも似て潤されるまで貪欲にそこに居座り続ける。
お前の姿が見えないと、声が聞こえないと、触れていないと私は一瞬だっていられない。
そんな時は迷い子のようお前を探し歩く。

部屋に朝日が差し込み靄が晴れてゆく。
私は肌に纏わりつく絹をそっと落とした。
鏡の中に晒される素肌。
この肌を見せる時が、ここにお前の手がふれる時がきっと来る。
お前にすべてをゆだねる時を予感する…

   女に生まれてよかった…

私は目を閉じお前のいた人生を振り返る。
なんと豊かで恵まれていたことだろう。
私はお前に何がしてやれるだろう。
お前が今まで私にしてくれたようにお前に私は何がしてやれるだろう。






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