2005 5/26
ジャルジェ家侍女物語 2
−秘密−
「お館にて −ジャルジェ家侍女物語−」の続編になります。
「星月夜」に関連しています。
順番としてはそちらが先になります。
明るい日差しが降り注ぐ。春は木々を巡り地を撫でる。樹木は一斉に芽を開き、野は鮮やかな彩りに溢れ返る。私は春が好き。明るさを増す日に応えるように、館の庭が芽吹いていく。ジャルジェ家の庭は季節ごとに違う美しさを見せるよう設計されているが、春が最も美しい。
一輪づつ愛でながら、花を摘み、花かごを作る。私の作る花かごは館中で評判だった。奥様に、オスカルさまに、そして館のそこここに… 飾る場所をみつけては、私はそこを花で飾った。広大な春の庭は摘んでも摘んでも女神の祝福が絶えることはない。
今日はどんな花かごを作ろう。晴れやかな気持ちで庭を歩いていた時だった。ドサリと上から何かが落ちてきた。突然のことに、私は叫び声を上げ、足を止め、地面を見た。足元に何かが横たわっていた。
布で作った顔に縮れた毛糸の髪の毛。レースの付いた白いブラウスに赤いドレスを着て、小さなエプロンをつけている。私はそれを拾い上げ、上を見た。
陽光に照り輝く葉の中から声が聞こえた。
「アリーヌ、拾ってくれてありがとう」
「ルルーさま!」
私は木の下に立ち、茂った葉に向かい声を上げた。
ジャルジェ家に古くからある大木。それは館中の窓から見える位置に植わっていて、大きく枝を広げる姿は庭の主のようだった。地面に近い位置で幹が分かれている。それが良い足場になっていることくらい経験上すぐにわかった。左右の幹はそれぞれに枝を分裂させ、葉を茂らせている。茂った葉の中に小さな貴婦人の靴が見えた。
「危ないです! ルルーさま、すぐに降りてください! そんな踵の高い靴で登ったりして、何かあったらどうなさいます!」
人形と同じ顔が葉陰の中から覗いた。
「お人形さんを持ってきて。アリーヌなら登れるでしょう」
彼女は手を伸ばした。
「ルルーさま! すぐに降りてください! さもなければ奥様に言いますよ!」
私は人形を頭上に振り上げ、大声で叫んだ。
「わかったわ」
意外なことに彼女は素直に降りてきた。するすると幹を伝い、難なく地上に降り立つと私に向かい甘えたように手を伸ばした。私はその手に人形を渡した。彼女はそれを抱くとうつむき、目を伏せた。
「アリーヌ、おばあちゃんには言わないでね。心配させるといけないわ。もし言いつけるならおじいちゃんにして。わたし、怒られる時は激しくやられるのが好きなのよ」
人形を抱きながら反省する姿はいじらしかった。
「誰にも言いません」
私の言葉に彼女はほっとしたように笑った。
「わたし、ここに登ってオスカルおねえちゃまかアンドレが帰ってくるのを待っていたの」
愛くるしい少女はジャルジェ家三番目のご令嬢オルタンスさまのご令嬢、ルルーさまだ。オルタンスさまとお館に遊びにいらして、オルタンスさまはまだ小さい彼女を残してお帰りになった。もっともそうして欲しいとねだったのはルルーさまご本人だった。
「まだお昼前ですよ。オスカルさまがそんなに早くお帰りになるはずありません」
「そうね」
彼女は屈託なく笑った。
ルルーさまはオスカルおねえちゃまが大層お気に入りだ。彼女の愛らしさは館の誰をも魅了したが、活発さにおいてはオスカルさまでさえ手をやいている。そして、それだけでなく彼女は驚くほど利発であった。それは時として大人をうろたえさせるほどであった。彼女は子供として扱いきれない不思議さを持っていた。
彼女の笑顔の向こうに隠れるものを私は感じ取った。
『言いつけるなら奥様でなく旦那様に』
この言葉の持つ意味を考え、私は侮れないと感じた。旦那様は厳しく叱責するがそれで終わる。奥様は判断によってはオルタンスさまに手紙を書くだろう。彼女は大好きなオスカルおねえちゃまの元から連れ去られてしまう危惧を計算に入れているのだ。
「ねえ、アリーヌ、アンドレはいつからこんな香水をつけるようになったの?」
思考から遠く離れた思いもかけない質問を浴びせられ、私はぎょっとして子供を見た。あどけない口から発せられたとは思えない内容だ。何てませた子供だろう! 私が顔に不快感を昇らせるよりも早く、彼女の腕が布の人形を私の鼻に押し当てた。
「あたし昨日ふざけてお人形さんをアンドレの頭にのせて遊んだのよ。そしたらほら」
ぷっくりとした手作りの抱き人形から、およそ不似合いな匂いがした。
「ルルーさま、何てことを!」
私は思わず激昂して人形を彼女の手から奪い取った。
「ね、ひどいでしょう。変な匂いだわ。わたし嫌いよ。わたしお人形さんを風に当ててこの匂いを取ってあげようと思っていたの。わたしはオスカルおねえちゃまの匂いが好き」
彼女の言葉を聞いて私は自分の行動の愚かしさを知った。男物の香水の匂いが幼女の持つ人形からした。その異様さに私は慌てたのだ。
「アンドレが‥?」
私は人形を手にしたまま、もう一度そこに鼻を近づけた。麝香の匂いが鼻を突いた。香水の原料になり、特に官能的な香りを作り出すのには欠かせない物だ。だが使い方一つでひどく下品になる。麝香は動物の生殖腺から取り出される物だと思い起こさせるほど、それは充分に不快だった。
アンドレから移ったという、その匂い。俄かには信じられないが、私は何かを突き止めるようにもう一度人形に鼻をうずめた。麝香に混じり白粉や煙の匂いもした。
「アリーヌ?」
ルルーが私を不思議そうに見上げていた。
「風に当てるくらいでは匂いは取れないかもしれません。この子にお湯を使わせてあげたらいかがでしょう。私が手伝いますわ」
私は喉元にせりあがってくる不快感を飲み込みながら言った。つける香水によって人が判ると言う。この匂いからは爛れてふしだらな人物と快楽に淀んだ背景が想像できた。
「まあ! それはいい考え」
子供は無邪気に私の手から人形を取り返した。
私には判らなかった。アンドレがあのような香水を使うだろうか。今まで、彼から、一嗅ぎで麝香だとわかる匂いを嗅いだことは無かった。
私は寝台に腰をおろし、夜が更けるほどに冴えてくる目をどうすることもできず、窓から外を眺めた。
私はジャルダンの店を思い出した。あそこの女達も安物の香水をつけていたが、これほどあからさまに下品ではなかった。煮込んだ料理やワインに混じる女達の安香水が健康的で明るく思えるほど、人形に染み付いた匂いは、暗く淀んで淫乱だった。
あの香水をつけ、彼はどこに行ったのだろう。昼間嗅いだ匂いは容易に忘れることができなかった。そして、それは夜になれば様々な場所を私に思わせた。
パリにあって、足を踏み入れることが躊躇われるような場所は多くあった。あの匂いはそんな場所を想像させる。そこで彼は何をしたのだろう。何を…
紫や、深い緑や、はたまた真紅の緞帳に隔てられ、隠された場所が、見たこともないのに目に浮かんだ。そこでなされたであろう事を想像し、私は寝台に身体を投げ出した。
アンドレだって男だし、彼がどこで何をしようが自由なはずだ。男の貞操なんてみっともなくて邪魔なだけ。男には女と違って色々厄介な事情があるらしいから。
自分に言い聞かせながら、私は胸の奥に焔が燃えてくるのを感じた。それは口惜しさだった。
アンドレには女の影がなかった。恋人がいるという話も聞いたことがない。女達からの誘いがあるに違いないのに、それらに乗った形跡もない。私も随分思わせぶりなことを言ってみたりしたのだが、ことごとく袖にされた。
彼のような男に恋人の影もないという不自然さ。それは一つの事を示唆していた。彼には隠された恋人がいるのだ。見た事もない女に私は歯軋りするほどの嫉妬を覚えた。
数日後、ローランシー家の令嬢はオスカルおねえちゃまに尽きぬなごりを惜しみつつ、再会を約束し、我が家へと帰っていった。
「あら、ボタンが‥」
すれ違いざま、私は彼の上着に手をかけていた。階段を降りてくるアンドレの上着のボタンが取れかかっている。
「本当だ。気がつかなかった」
上着を探るアンドレの指が私の手に重なった。
「ありがとう。後で付けておくよ」
ほつれて伸びた糸の先端に上着の大きなボタンが引っかかっている。彼は自らボタンを引きちぎるとそれを上着のポケットに入れた。
「私が付けてあげるわ」
私は彼の前に手を出した。
「これくらい自分でやるさ」
彼はいつものように気さくに笑うと私の腕を取り、まるで貴婦人を段の上に差し上げるような仕草で先を促した。私は彼の仕草にふさわしい淑やかな足取りで一歩段を登った。まるで宮廷遊びのようだ。心がくすぐったくて思わず笑みが漏れた。身についた仕草というのだろうか。それとも私をからかっての戯れだろうか。どちらともつかないような動作を彼は時々した。
私は彼と同じ段に立つと前掛けのポケットに手をいれた。
「私にやらせて。ちょっとした繕い物ができるように持ち歩いているの」
小さく折りたたみ、リボンで巻いたピンク色のサテン地の布をポケットから取り出す。私は彼の前でそれを広げてみせた。布の内側には糸を通した針が何本も刺してある。
驚いたようなアンドレの口笛の音が聞こえた。
「では、アリーヌに頼むかな」
アンドレが上着を脱ごうとする。
「脱がなくてもそのままで大丈夫よ」
彼を制しながら私は手を差し出した。アンドレは先ほどしまったボタンを取り出した。彼の上着にいつも留まっているボタンが私の手の上に乗せられる。煌びやかさも飾りも何もない茶色のボタン。私はそれを握りしめた。
「待ってね。すぐにやってしまうから。二十数えるうちに付けてしまうわ」
私はサテン地から針を一本抜くと上着の布地に刺し通した。
階段の途中だった。彼は背中を壁に押し当て立っている。彼の上着をつかみ、そこに顔を埋めるようにして私は針を動かした。
彼を壁際に押し込むような格好はどこか気持ちを昂ぶらせた。彼はまるで観念したかのように私の手の中にいる。せわしく手を動かしながら、私は自分の中に生まれた欲望をはっきり認識した。彼が欲しい。今なら彼は私のものになるのではないか。
アンドレの息遣いを間近に感じ、欲望が思いもかけぬほど膨れ上がっていくのに動揺しながらも、私は嗅覚に神経を集中させていった。あの不快な匂いを上着の内側に嗅ぎ取ろうとしたのだ。
アンドレからは淫靡な麝香の匂いはしなかった。呼吸がかすかに感じられる胸の動きや、質素ではあるが清潔な白のシャツから仄かに匂う男の匂いを私は知っていた。女とは違う男の肌の匂い。それは何年もお館にいて自然に覚えた彼の匂いだった。
「さあ、終わったわ」
最後に糸を噛み切る。瑣末な作業の終了に一抹の寂しさを感じながら、私は裁縫の出来を確めた。
「五十まで数えた」
笑い声と共に彼の声がした。
「まあ!」
私は顔を上げ、一緒に笑った。
「ありがとう、アリーヌ。自分で付けるよりずっと綺麗だ」
彼は身軽に壁際から抜け出すと、片方の腕を私の頭に巻き付け胸に引き寄せた。額に手がかかり頭が動く。胸のすぐ近くまで引き寄せる彼の腕。これは彼が親愛の情を示す時によくやる動作だった。男女に関わらず年下の者に対し、慈しむ時に彼が取る態度。屈託なく親愛あふれるその様子を私は何度も見てきたし、受けてきた。そして彼の腕は一瞬で解かれ、私は放される。
彼は振り向きざまに笑みだけ残し、階段を降りていく。私はあと数段という段が登れない。
私は額に手をやり彼が残していった感覚を反芻する。彼が残していくのは笑みだけではない。記憶に塗られた彼の匂い。こうして私は彼の匂いを覚えていったのだ。
その日、オスカルさまのお帰りはいつもより早かった。
「アリーヌ、頼みたいことがある」
オスカルさまは帰るなり私を認めると早口でそう言い、二階を振り仰いだ。
「お帰りなさいませ。只今、お飲み物を用意します」
お帰りの時間で無かった為、ホールには私の他にお迎えする者がいなかった。私は慌てて腰を屈め台所に下がろうとした。
「いらない。またすぐ宮廷に戻らなければならない。私の部屋に来てくれ」
手首を掴まれ、引きとめられた。間近でオスカルさまに見つめられ、心臓が鳴る。この深い蒼い瞳に見つめられ、心がときめかない者はいない。オスカルさまはお急ぎのご様子で二階に上っていく。私は急いでその後を追った。
部屋に入るとオスカルさまは一直線に机に向かい、書簡箋を取り出た。ペンを持ち、慌しく何か走り書きするとそれを封にしまい私を手招きをした。
「アリーヌ、これをグラヴィエール侯爵夫人に届けてくれ」
机に歩み寄った私の前に紺色のビロードの小袋が差し出された。
「今日、夫人が宮殿内の劇場にお忘れになった。私が見回った後だから良かったもの… このような高価なものを無雑作に置き忘れてもらっては困る」
オスカルさまは小袋の中身を僅かに引き出してみせた。細かく砕いた雪の結晶のような輝きの中に大粒の緑の宝石が埋まっていた。深く透き通った色。大きさといい、輝きといい、今まで見たこともないほど豪華な物だった。
「アンドレがいればあいつに頼むのだが‥」
オスカルさまの伏せた長いまつげを私は見た。アンドレは領地の仕事に出かけて不在だった。
「いいか、高価なものだから直接侯爵夫人にお渡しするのだ。侯爵夫人はもうお帰りで在宅のご様子だ。私から届け物があるとも伝えてある。ジャコブを連れて行け」
「はい」
オスカルさまから手紙と共に袋を渡され私の手は震えた。小さな袋はずっしりと重かった。
「これはグラヴィエール侯爵夫人自慢の宝石だ。紛失騒ぎは皆が迷惑する。だが、置き忘れをとがめだてすることも出来ない。こういった御婦人の私物は内密に扱うのが無難だ」
オスカルさまの手が私の手に触れた。オスカルさまが私を信頼して大事な用を任せてくれた。私はそれが嬉しかった。
グラヴィエール邸はベルサイユの中心に建っていた。立派な門構え。グラヴィエール侯爵は宮廷でも重要な位置にいるお方で、グラヴィエール候夫人はアントワネットさまの大切なご友人と聞いた。館を前にして私の足は震えだしていた。
来訪の旨を伝えるとまるで客のような扱いで館に通された。馬車を御してくれたジャコブと別れ、私はグラヴィエール邸のホールに立っていた。
高い天井、豪華なシャンデリア、金でできた大小の置物があちこちに置かれ、真っ赤な絨毯が敷き詰められている。そこは訪問者を圧倒する華美に溢れていた。
「どうぞ、こちらに」
無表情の侍女に案内され、私は靴先を深々と埋めながら階段を登った。
「こちらでお待ちください」
通された部屋を見て私はまた驚いた。薔薇の描かれた深い色の壁、柱や天井は白で、窓には幾重にも薄いレースがかけてある。床の絨毯は淡いグレー地にやはり薔薇が織り込んであった。ホールよりは落ち着いた色合いにまとめられていたが、家具や調度や飾りの豪華さは同じであった。
私は勧められるまま、中央の椅子に腰を下ろした。
「しばらく、お待ちください」
侍女が引っ込んでしばらく経つと扉が開き、美しい貴婦人が現れた。私は反射的に立ち上がったが、声が出なかった。
「まあ、ジャルジェ家の御遣いって… 貴女だったの‥ アンドレは?」
部屋の入口に立つ婦人の笑顔は大層優しげであったが、どこか責められているように感じた。
「アンドレ…?」
呆けたように侯爵夫人の最後の言葉をなぞるように返しながら、夫人の口から思いもかけぬ人物の名前が出たことに戸惑った。
「そうよ」
グラヴィエール候夫人はにこやかに笑うと、ゆったりとした動作で私の前に歩み寄り、目の前の椅子に腰を降ろした。腰を降ろしながら侯爵夫人は私を見上げた。優しげな中に小動物をいたぶるような残忍さが見えた。それは侯爵夫人の怒りを物語っていた。恐ろしかった。なぜ夫人に責められているのかわからず、緊張と得体の知れぬ恐怖で気が遠くなりかけたが、私はようやく用事を思い出し正気を保った。
「あ、あの、これを、オスカルさまから‥」
私は慌てて持っていた紺ビロードの袋を彼女の前に差し出した。
「あら」
軽い声だった。侯爵夫人は小袋に手を伸ばすと中身をそこから取り出した。オスカルさまの机の上で見た時よりもはるかに大きな輝きでそれは現れた。細かいダイヤをびっしり埋め込んだ台座に大粒のエメラルドが幾つも乗っている。私は今更のように息を呑んだ。
私の驚きを見て取ったのか、侯爵夫人が笑いかけた。一瞬にして険のある表情は跡形も無く失せ、無邪気そうな笑みに変わった。
「どう? このエメラルド、見事でしょう」
侯爵夫人は首飾りを胸元に持っていき、私を見て笑った。夫人の胸元は豊かに膨らんでいて、真っ白な肌には薄蒼い静脈が浮いていた。彼女がまとっている柔らかで薄い生地のドレスは部屋着のようであったが、それが逆に官能を感じさせた。侯爵夫人は長椅子の上に置かれたクッションに肘をもたせかけ、子供が玩具をもてあそぶようにエメラルドをいじっていた。
グラヴィエール侯夫人は美しかった。微笑みは可憐でありながら、高貴な身分を象徴する余裕と貫禄に溢れている。侯爵夫人の髪や肌の艶は眩しいほどであり、王妃さまを取り巻くベルサイユの貴婦人達の美を物語っていた。
「王妃さまはそれは美しい物を幾つも持っていらっしゃるのよ。でもこれも負けないくらい素敵でしょう。私が見つけたデザイナーにデザインさせたの。彼女のセンスは誰にも負けないと思っているわ。貴女これをどう思って?」
侯爵夫人の持つエメラルドが妖しい色に輝く。私は目の前がゆらゆら波打つように感じた。
「はあ」
私は曖昧に返事をした。私には窺い知れない世界。返事の仕様がない。
「ふふふ」
侯爵夫人は嫣然と笑った。
「彼女はね、若いけれどとても才能があるのよ。私が見込んでいるのですもの、当然よ」
エメラルドをいじりながら独り言のように言う侯爵夫人はどこか遠くを見ていたが、ふいに長椅子から身体を起こすと私を真っ直ぐに見つめた。
「あなた、彼女に似ているわ。だから最初に見た時あんなに驚いたのね」
侯爵夫人の言う意味は私には分からなかった。優しい微笑みに向かい合いながら、私は訳もなく不安になった。
部屋に侍女が飲み物を運んできた。私は驚いて席を立った。帰ろうとする私を侯爵夫人が遮った。
「待って。大切な宝石を届けてくれた方ですもの。どうぞお茶くらい飲んでらして。私は着替えてきます」
私は途方に暮れ、椅子に座り直した。届け物をしただけなのにこんな待遇をされて途惑った。ジャコブはどうしているだろう。オスカルさまは宮廷に戻られただろうか。長居をしてきっと怒られる。だが黙って帰る訳にもいかない。
目の前のテーブルに良い香りのする飲み物が置かれていた。紅茶のようだがジェルジェ家のものとは匂いが違う。隣には三段に重ねた皿の上に菓子が乗ってる。私は一番上のカカオの粉がかかった小さな丸い菓子を見た。どれもがふんわりと丸く、上にそれぞれ違う色の花の砂糖漬けを乗せている。なんて愛らしい。私は思わず一つを手に取り口に入れてみた。
上品な味わいだった。甘さは緊張を解きほぐしてくれる。私は丸みを舌で転がしながら、ゆっくり歯を立てた。小さな菓子は舌の上で割れたが、同時に思いもかけない物が溶け出してきた。私は急いで紅茶のカップに手を伸ばし一気に半分ほど飲み干した。ドロリとした感触は鼻に抜ける強烈さを持っていた。流れ出してきたのは強い酒だった。
私は大きく息をつき、椅子に背をもたせかけた。喉の奥が熱かった。視界が揺れているような気がして、私は頭を振りながら部屋の中を見渡した。
入った時は気がつかなかったが、向かいの椅子の後に台があり、服が広げてある。私は席を立ち、そこに近づき、それを見た。男物の服だった。
グレイの上着は銀の縁取りに飾られていて、内側には襞をたっぷり取った絹のシャツが揃えられていた。シャツの上にはそれぞれ違う宝石をあしらった襟飾りがいくつも乗っている。台の足元には乗馬靴が置かれ、さらに向こう側には白と黒の羽飾りのついた帽子があった。
私はもう一度部屋の中を見渡した。ここは客間ではなかった。館の中に占める場所といい、広さといいい、調度や部屋の飾りといい、ここが侯爵夫人の私室であることは間違いなかった。
部屋の向こうに奥に通じる扉が開いている。私はそっとそちらに歩み寄り中を覗き込んでみた。
おびただしいほどのドレスが目に飛び込んできた。隣の部屋の三つの壁は全てドレスで埋め尽くされていて、残った壁面に巨大な鏡が掛けられていた。部屋の中央にはガラスケースが置かれてあり、その中で首飾りや耳飾りなどが競うように輝きを放っていた。あまりの豪華さと部屋中に溢れる色にめまいがしたが、私の目は部屋の中央の台、ガラスケースの向こうに固定された。そこには同じように男物の服が置かれてあった。こちらは黒にも見える暗緑色の上着だった。やはり豪華な絹のシャツが合わせてある。他にもデザインの違ったシャツが数種類広げてあった。隣の椅子には長いマントも掛けてあった。ドレスだらけの女の部屋に男物の服が置いてある。どこか不自然な感じがした。
侯爵夫人は着替えてくると言って部屋を出て行った。一体どこへ… 私は侯爵夫人を待ちながら華美の中にある暗緑色の男物を眺めた。
視界の揺れは収まったが、今度は胸の鼓動が早くなってきた。私は部屋の境目に立ち、両方の部屋に置いてある男の服を交互に見遣った。夫人がグラヴィエール侯爵の為に用意したものだろうか。グラヴィエール侯爵の宮廷での地位の高さや評判を聞くと、もっと年がいっていると思ったが、そうではないようだ。この服から察してグラヴィエール侯爵は若い。そして美しい男に違いない。
椅子に戻りかけた時だった。扉が開いて着替えを済ませた侯爵夫人が現れた。先ほどのゆったりしたドレスとは違い胸と肩を大きく露出させたドレスを着て、胴を細く絞っている。暗緑色のドレス。そして胸には先ほどのエメラルドが輝いていた。
あまりの美しさに私は声が出なかった。ベルサイユ宮殿に集う貴婦人たちはこれほどまでに美しいのか。私は思わず数歩後ずさった。
グラヴィエール候夫人は胸を反らし、私の前に白いふっくらした腕を差し出すようにして尋ねた。
「どう? 私は美しい?」
「は、はい」
喉の奥で声がかすれた。侯爵夫人の手には一通の白い封書があった。
「これをオスカルさまに‥ エメラルドは確かに受け取りましたと。私はこれから夜会に出かけます。またお会いしましょう。貴女、可愛らしくて気に入ったわ、いつでも遊びにきてちょうだいね」
悪い冗談だった。
ジャコブの元に戻ると案の定、厳しく叱責された。他家の使用人が夫人の私室にまで入り込み茶菓のもてなしを受けるなど、言語道断。言われなくても分かっている。私は馬車の椅子に座り、目をつぶり安堵の息を漏らした。馬車が動く。振動が伝わると同時に私は背中が冷たいのに気がついた。汗をかいていた。
グラヴィエール候夫人は優しかった。優しく微笑み、甘い声で話し掛けてくれた。そんな彼女に向かい私はこんなに汗をかいた。緊張もある、だかそれだけではなかった。何を感じたのか…
馬車がジャルジェ家の門を入る。見慣れた前庭を見て私は涙ぐんだ。ジェルジェ家の館に比べるとグラヴィエール邸は要塞のようだった。みだりに人を入れないかわりに、誰も逃がしはしない、そんな気がした。私はそこから逃げてきた。そう、逃げてきたのだ。豪華だが華美なホール、無表情な召使い、薔薇と香水に囲まれた部屋。どれもが恐かった。
馬車から降り庭に回る。咲き誇る花々に迎えられながら、私は涙の粒を落としていた。
私をジェルジェ家にと口利きしてくれたミレーユが病気だ。私はマロン・グラッセさんに時間をもらい彼女の家に見舞いに行った。
「よく面倒をみてやっておくれ。幸い旦那様もオスカルさまも今日は宮廷にお泊りだ。屋敷の方は私達で何とかなる。気遣いはいらないよ」
マロン・グラッセさんは自慢の手作りの煮込み料理を持たせてくれた。
私は買い物をし、夕食を作り、彼女に薬を飲ませた。医者の診断では無理をしなければすぐに直るとのことだった。
「私がしばらく通うから、無理をしないで」
水差しに水を汲み、寝台脇に置く。私はミレーユの髪を撫でながら、彼女が寝付くまでそこにいた。
彼女が起きないように気をつけながら外に出る。すっかり遅くなってしまったが、日が長くなったせいか、通りはまだうっすらとした明るさを保っていた。だがすぐに日は暮れるだろう。暗くなる前に館に着きたかった。私は足を早め石畳を歩いた。
グラヴィエール邸の前を通りかかった時だった。軽い蹄の音が聞こえ、私は反射的にそちらを窺った。
表の門は大きく開けられていて、その向こうから馬に乗った一人の男がこちらにやってくるのが見えた。長い前庭の奥に館が見える。威圧するような屋敷を背に、たった一人で男はやってくる。黒いマントに羽飾りのついた帽子。顔は良く見えない。だが馬にまたがる姿勢は軽やかで美しかった。
近づく彼を見つめながら、私は彼の服が、いつかグラヴィエール候夫人の部屋で見た衣装と同じ事に気がついた。グラヴィエール侯爵だ! 高い身分でありながら供も付けずにたった一人で… 私は思わず彼に見つからないように門の端に身を隠した。グラヴィエール侯爵を見たかった。
近づくほどに彼は私が思い描いた通りの男であることがわかった。手綱裁き、黒い服をまとった均整のとれた身体と乗馬姿‥ あとは顔さえ見られれば‥
彼が門の手前、私の目の前に来た時だった。顔を上げた彼と目が合った。彼は私を凝視しながら、私が誰だか考えているようだった。何かを思い出そうとするかのように… そして、その顔が驚きに変わった瞬間、私は馬の背から体を乗り出した男に腕をつかまれた。
「アリーヌ! 乗るんだ!」
彼は大声で叫びながら私を引きずるようにして馬の背に乗せた。彼に抱えられ、鞍の前に乗ったかと思うと、馬は全速力で駆け出した。
私は疾風のように駆け出す馬から振り落とされないように、手綱を握る男の服にしがみついた。馬はべサイユの通りを駆け抜けると、あっという間にパリに向かう道に入った。
「ア、アンドレ!」
私も驚いた。なぜアンドレがこんなところに‥! 分からない。どうしたって分からない。アンドレがグラヴィエール侯爵だなんて‥! 一体どうなっているのだろう!
彼は何も言わず、ただ馬を急がせた。私は彼の服をつかみ胸に顔をつけた。激しく波打つ鼓動が聞こえた。
「アンドレ‥」
混乱した頭で私は彼の名を呼んだ。アンドレは何も言わない。手綱を握る彼の腕に囲われながら、不安が襲う。容赦の無い手綱さばきだった。私はアンドレの胸にしがみついたまま、僅かに顔を上げた。彼の首が目の前に見えた。滑らかな皮膚。彼の服からは侯爵夫人の香水の匂いがしたが、そこからは彼の匂いがした。私は伸び上がり彼の首に沿いながら頭を大きく後ろに反らせていった。首から連なる顎の先端までが見えた。
耳元で風が唸る。思わず振り落とされそうになり、私は両腕をアンドレの身体に回し、しっかりと引きつけた。唸りを上げる疾風を避けようと、私は彼の胸に顔を埋めた。
ベルサイユからかなり離れた道の端で馬は止まった。アンドレは黙って馬から降りると私に手を貸し、鞍から降ろしてくれた。
「アンドレ…」
彼に向かい、呼び慣れた名前を呼びながら、私は違和感を感じずにはいられなかった。彼は貴族の男の格好をしていた。羽飾りの帽子は途中で落としたが、彼はどこから見ても完璧な貴族だった。
「アリーヌ、ここで見たことは、黙っていて欲しい」
沈痛とも取れる表情をしながら、それでも静かに彼は言った。暗緑色の上着に襞の入ったシャツと宝石の付いた襟飾り。黒の乗馬靴は磨き上げられ、マントを留める留め金も、鈍い高価な輝きを放っていた。
「分かったわ」
驚きは落胆に変わっていった。長年の疑問が解けたのに、それは白々としたよそよそしさで私の心を塞いでいった。いつも彼の心を独占する恋人を知りたいと思っていた。彼は、なぜこれほどまでに隠すのか。疑問が氷解する… 彼の選んだ女は貴族で、夫のある婦人だった。
胸の奥で嫉妬がくすぶるのがわる。だがそれよりも強い感情は恐怖だった。
「アンドレ‥ 貴方、殺されるわよ」
私は正直に言った。彼が怒っても構わない。平民の男と侯爵夫人。禁断の愛が発覚すれば、彼の命はない。彼を見たのが、私ではなく、グラヴィエール侯爵だったら… 私の脳裏にグラヴィエール侯爵に撃ち殺されるアンドレの姿が映った。
「俺は殺されても構わない」
彼の冷静な一言は私の頭に血を昇らせるに充分だった。きっと彼は長い間、慎重に隠し通し、愛を貫いてきたに違いない。多分、私が知っている限りの時間をずっと… それに対しグラヴィエール候夫人はどうだろう。貴族である彼女にとってアンドレはあまたの恋人の一人に過ぎないのではないか。危機に際して彼女はアンドレを庇ってくれはしない。
貴族なんてやめて! 私は彼につかみかかりそう言いたかった。貴方には豪華なドレスや宝石で着飾った女は似合わない。貴方に似合うのは、質素でも清潔で優しい、暖かい女だわ!
怒りと嫉妬が私を突き動かしていた。アンドレをあの屋敷に通わせたくない。
「私‥ オスカルさまに言うわ」
私は小さくつぶやいたに過ぎなかった。だがそれを口にした途端、大股で歩み寄るアンドレに私は痛いほど手首をつかまれた。
目の前に黒い瞳が迫った。そこにはいつも見る明るいきらめきはなく、恐怖とも怒りともつかないものが動いていた。
「アリーヌ」
黒い瞳に射(い)殺されるかと思った。だが、アンドレは手を離すと私に背を向けた。ゆっくりと道を歩きながら彼は何か考えているようだった。やがて彼の顔がこちらを向いた。
「アリーヌ、お前にだけ打ち明ける。だから絶対に誰にも言わないで欲しい」
先程とは違う静かな眼差しで彼は私を見つめた。
「秘密は守って欲しい。これは俺一人の問題ではない。オスカルとジャルジェ家に関わる重大な問題だ」
真剣な声に私は震えた。彼は何を話そうとするのか…
「アリーヌ、オスカルが暴漢に肩を刺された時のことを覚えているか?」
アンドレの視線に促されるように私は頷いた。あれは私がジャルジェ家に来て一年経った頃だった。オスカルさまがアントワネットさまの名を語った何者かにおびき出され、襲われた。幸い命に別状はなかったが、左肩に深い傷を負った。賊は単なる物取りではなく、オスカルさまの命を狙ったという。
「今、宮廷ではオスカルを陥れようとする者が権力を握っている。アリーヌには分からないかもしれないが宮廷とは恐ろしい所なのだ。権力を手に入れる為なら、人間として有るまじき行動に出ようとする者が少なくない。権力や金といった物に人間は弱いのだ」
彼は諭すかのように優しく言った。
「そんな中にオスカルはいる。彼らは人の命を奪うことを躊躇わないし、オスカルを失脚させる為ならどんな手段でも使うだろう。彼らはアントワネットさまにさえ手を出すかもしれない。もしアントワネットさまに何かあったら、それはオスカルの責任になる」
彼は腕を組み、遠くの空を見ながら独り言のように言った。
「勿論、彼らは機会さえあればこれからもオスカルの命を狙うだろう。だが俺は、もう二度と彼らをオスカルに近づけることはしないし、陰謀に嵌るつもりもない」
きっぱりと言い放ち、再びこちらに歩み寄り、もう一度アンドレは私の腕をつかんだ。
「それには有力な情報がいる。彼らに近い人間だけが持ち得る、確かで有力な情報だ。俺はそれが欲しい」
宮廷など行った事のない私だが、彼の言葉から、危機と隣り合わせでいなけばならない緊迫が感じられた。私はそうと気づかぬうちに宮廷とグラヴィエール邸を重ね合わせていた。
「グラヴィエール候夫人はその権力者と親しい。彼女の情報は有益で狂いがない。俺は彼女から情報を得るために、そこヘ行っている」
アンドレは彼に似つかわしくない残酷ともとれる笑みを浮かべ、私を見つめた。
「彼女を‥ 愛しているの?」
喉の奥が乾いていた。そこからようやく出した声は震えていた。
「愛している?」
アンドレの顔が醜く引きつったかと思うと、彼は宝石の付いた襟の飾りを引きちぎり、地面に投げ捨てた。
「愛していたら、どんなにいいか」
彼の声はぞっとするほど冷たかった。
「アンドレ‥ 貴方そこで何を‥」
答えは予想できたのに、聞かずにはいられなかった。彼は引きちぎった襟を開け、シャツのボタンをいくつか外すと、少しばかり胸を開いて見せた。
「もちろん、情報の見返りは払っている。彼女が望むままに」
後悔したが遅かった。アンドレの口から聞きたくはなかった。私は顔をそむけたが彼の声が追いかけてきた。
「アリーヌ、正義がまかり通るほど宮廷は甘くない。オスカルや旦那さまの力をもってしても、どうにもならない事がある。俺一人が笑い者になり、殺されるのは構わない。だが、もし、オスカルに何かあったら‥」
彼は言葉を切り、私の顔を上げさせるように両肩をつかんだ。
「わかるだろう? 陰謀が発覚する前に俺は身の程知らずの愚か者として殺されるつりだ。だがまだ死にたくはない。オスカルを護りたい。まだオスカルは安全とは言えない」
私は自分の浅はかさを思い知った。アンドレと侯爵夫人… 私の考えなど及ばぬ世界に二人はいたのだ。情報と見返り。私が知る限り、それは膿んだ汚らわしい関係だった。
私の目には見たことのない侯爵夫人の寝室が見えていた。そこは彼女の居間と同じように、おびただしいほどの薔薇に囲まれているだろう。そこでアンドレは‥ 私は彼女の白い腕や豊かな胸を思い出していた。
「アンドレ‥ キスして! 私、あなたが‥」
ふいに襲った激情に押し流され、私は彼の首に両腕を回し、驚く彼の唇に口づけていた。
初めて触れる彼の唇だった。
「やめろ、アリーヌ! きみが汚れる!」
彼は首に手を回すと強い力で私の腕を振りほどいた。勢いで私は転び、地面に膝をついた。手に小石があたる。
アンドレの愛する女はグラヴィエール候夫人ではなかった。彼がそうしてまで護りたいもの… 長年の彼の想いを私は見た。
オスカルさま… オスカルさまを護る為なら、彼は批判と嘲笑の中で死ぬ覚悟なのだ。彼が長い時をかけて愛した人を、私は今、はっきりと知ったのだ。
ベルサイユからパリへ通じる道の赤土を私は握りしめていた。
「アンドレ‥ 貴方、オスカルさまをそんなに…」
指の間から土が漏れてくる。彼が膝をつくのがわかった。目の前に手が差し出される。
「グラヴィエール候夫人は恐ろしい人だ。人の心を見透かしている。俺がこうせざる得ないのを知っている。彼女は切り札を持っている。俺は逆らえない」
差し出される手につかまり、私はゆっくり立ち上がった。
「アンドレ、貴方がこうまでしていることを、オスカルさまは知っているの?」
私の質問に彼の顔が青ざめるのが分かった。
「オスカルは何も知らない。知らせてはならない」
彼は静かに首を横に振った。
私の中に激しい嫉妬が燃え狂った。オスカルさまが憎かった。アンドレにこんなことをさせて、何も知らないオスカルさまが憎かった。
「ひどいわ! オスカルさま、あんまりよ! オスカルさまは貴方の気持ちに応えることはないわ。それどころか、きっと一生気がつかないわ! アンドレ、貴方それでもいいの?!」
感情が渦まき、涙が溢れた。何もかもが熱く辛かった。
「それでいい」
冷静で自己を棄てた声だった。
私は涙に濡れた顔をアンドレに向け、彼の破れた襟元に指をかけた。馬の上で見た彼の首すじ… ボタンの外れたシャツの胸を開き、そこに指を這わせた。
「私は貴方が好き。応えてよ。でなきゃ、オスカルさまに言うわよ」
アンドレの瞳が目の前にある。彼は綺麗なまつげをニ、三回上下させたかと思うと、ゆっくり目を閉じた。
アンドレの指が顎にかかり、彼の唇が私の唇を包んだ。先ほどのように触れるだけではなく、最初は柔らかく、次第に深く、彼の唇は私の唇を捉えていった。私はアンドレの肩に腕を回し、抱きしめた。今まで感じたことのない渦が私を襲った。ゆっくり動く唇と、容赦なく官能を誘い出す舌に、私の鼓動は音をたてる。何かを欲するかのような疼きは身体の中心に集約されていく。私も貪欲に彼を捉えた。アンドレはそれに応えてくれる。恍惚感に支配され、自分がただ求めるだけの感覚しかなくなったところで、彼は唇を離した。
「アリーヌ、きみも切り札を持っている。グラヴィエール候夫人と同じだ。その切り札の前で俺は無力だ。侯爵夫人と同じように、きみもそれを使うのか?」
口づけの余韻に陶然となりながらも、私は彼の瞳に暗い影が差すのを見た。言葉よりも早く、それは彼の絶望を語っていた。
唇に残る彼の舌の感触。私はそこを舐めながら、身体の中に大きな空洞が開いていくのを感じていた。全身の力が抜ける。私はアンドレの胸に倒れ込んだ。悲しみが襲う。今日彼の瞳に移った様々な色、灼熱、自嘲、諦め、だが絶望ほど私を恐れさせたものはない。
私はアンドレの胸に額を付け、地面を見て泣いた。彼は私の両肩に手をやり、ただじっとしていた。ひとしきり泣き、私は頬の涙を彼のシャツで拭いた。そこからは、汗に混じり女の香水の匂いがした。私はそれを両手に握りしめた。
「アンドレ、どんなことがあっても隠さなければならないなら、もっと慎重にすることね。いつかの麝香の匂い、あれはひどかったわ」
額を付けたまま、私はそう言った。
「あれは侯爵夫人が投げた香水の瓶が頭に当たって… 匂いを消そうとしたんだ。でもあんなヘマはもうしないよ」
顔を上げ、アンドレを見た。瞳を翳らせた影は底に沈み、穏やかな光が宿っていた。彼は寂しそうに笑みを浮かべながら私を見ていた。濡れて艶のある唇は口づけの後を物語る。
もう一度彼の唇に触れたい。
私は爪先立ち、アンドレの唇に自分の唇を沿わせた。愛しているわ。彼の唇に独り言のように囁く。彼は何もしなかった。されるがままになりながら、石像のように動かなかった。
私がかかとを降ろすまで彼は待ってくれたのだと思う。うつむく彼の表情は悲しみをたたえていた。自身のものか、私に対するものか。私が爪先立つと同時にまるでうなだれるかのようにうつむいた彼。そうしなければ彼の唇に私は届かない。それは私に対する優しさやひとかけらの愛情と勘違いすることもできた。だがその仕草は自分を慕う女に対する憐憫といったような傲慢さは微塵も無く、むしろ奴隷の無力感に近いものだった。私はそれに恐怖した。
私が落ち着くまで彼は辛抱強く待ってくれた。
「ベルサイユの入口まで送っていく。そこからは悪いが一人で帰ってくれ」
アンドレが馬の手綱を引いてきた。 彼の声はいつもと同じ穏やかで優しかった。
「アンドレ… 貴方は?」
「俺はパリへ行って服と馬を変えてくる。いつも世話になっている店があるんだ」
馬具を確かめるようにうつむき、揃ったまつげを見せながら目を伏せる彼を見て私はまた欲情した。先ほどの口づけはなんだったのだろう。あれほどまでに官能的で扇情的なくちづけをしながら、日常の動作をする彼。私をあれほどまでに煽っておきながら、日常に戻れというのか。私は扇情の記憶を辿るように唇を舐めた。
顔を上げる彼と目が合った。彼は私の中にある猛々しい発情を見たのか、自分を投げ出すような先ほどとは違う様子を見せた。寂しそうな表情で首を左右に振る。それは見落としてしまいそうなほど小さな動作だった。だがそこには確固とした意志があった。
私が初めて彼から受けた二つのくちづけの何と違うことか。
「さあ」
もう彼は普段どおりに動く。
アンドレに手伝われ足をあぶみにかけた。彼が馬上に差し上げてくれる。
軽やかな身のこなしで私の後ろにまたがるアンドレの身体が確かな重みとなり、重なってくる。それは私に許される、多分最後の時間だった。
鞍に腰掛けアンドレの胸にもたれかかった。日はすっかり落ち、辺りに闇が迫っていた。彼の胸と手綱を持つ手に囲われて、重い体と頭を彼に委ねた。
アンドレは、ゆっくり帰りたいという私の願いを聞き入れてくれた。穏やかに、だが軽快に馬を駆る彼の手綱さばきは爽やかな風を髪に送ってくれる。
両脇に迫る黒い森。行く道の先に小さな明かりが見える。それは次第に大きくなる。このまま、いつまでもこうしていたかった。彼と一緒にどこか知らない国へ行きたかった。
ベルサイユの最初の明りの下で彼は馬を止めた。
「もう暗いから、馬車を拾って帰るんだ。いいね?」
囁くアンドレの声が耳をくすぐった。私に手を貸す為に降りようとする彼を制し、私は一人で馬から飛び降りた。
「アンドレ…」
私は彼の乗馬靴に手をやり、顔を寄せた。アンドレは馬から乗り出し、私の顎に手をかけた。優しい黒い瞳が私を見つめる。
「ありがとう。アリーヌ」
彼はそれだけ言うと、右の手綱を勢い良く引いた。馬はいななきを上げ、向きを変える。マントが翻ったかと思うと、馬の姿はすっかり暗くなった闇の中に消えていた。
Fin