2003 1/1
挿絵 市川笙子さま

五月の薔薇




 ヴィクトールは馬から降りると手綱を馬丁のシモンに投げた。士官学校からずっと走らせて来たのでリュミエールは汗びっしょりだ。
「お帰りなさいませ、ヴィクトール様」
 シモンは手綱を受け取ると顔を上気させて言った。
「イレーヌ様とマティルド様がお見えです」
「伯母上が?」
 ヴィクトールは僅かに眉を寄せると手袋を外しながらホールへと向かった。アプローチの途中で右手にやや小高く広がる薔薇園に人影を認めた。薔薇は今が盛りと咲きみだれ、その香りはアプローチは勿論、庭中に溢れていた。ヴィクトールは花の中で薔薇が一番好きだった。形も、色も、香りも。あちこちにふんだんに設えた屋敷中の薔薇園の薔薇が競うように咲き誇るこの季節が、一年で一番好きだ。
 薔薇園の人影は二人いて、東屋の屋根の下で寄り添っていた。男と女は熱いキスを交わしている真っ最中だった。
(リディーも来ているのか)
 先ほどのシモンの赤く照れたような顔の意味が分かったような気がして、ヴィクトールは小さく舌打ちした。
 ホールに入ると侍女のエレナが待ち構えていたようにヴィクトールに言った。
「お帰りなさいませ、ヴィクトール様、奥様とイレーヌ様方がお待ちです」
(やれやれ、挨拶しない訳にはいかないな)
 ヴィクトールはホールを抜けると客間へ向かった。客間からは賑やかな笑い声が溢れ返っており、宴もたけなわという感じだった。
「失礼します」
 ヴィクトールは扉に手をかけると勢いよく開けた。嬌声は一瞬やみ、視線の注目をあびる。
「お帰り、ヴィクトール」
「お久しぶりね、ヴィクトール」
「元気だったかしら?  ヴィクトール」
 母親と念入りに化粧を施した二人の貴婦人がにこやかな笑顔を向けた。ヴィクトールはテーブルに歩み寄ると丁寧に挨拶をした。
「ようこそいらっしゃいました、イレーヌ伯母様」
 イレーヌ伯母の手を取り口づける。イレーヌは満足そうに微笑んだ。
「ご機嫌いかがですか、マティルド様」
 マティルド伯母にも同じように。
「ヴィクトール、今日はリディーも来ているのよ」
 マティルドは目を細め、くっきりと紅を引いた唇を動かした。
「はい、先ほど兄上と薔薇園でお見かけしました」
「まあ、そう、おほほ」
 マティルド伯母は嬉しそうに声を上げて笑った。
「そうそう、それでね、そのスービーズ侯爵のことなんだけれども、私のまた従兄弟のセシールの兄と知り合いだったのよ。私もアネットもそんな事は知らないから…」
 イレーヌ伯母の話が続く。
「伯母上、お話の途中で申し訳ありませんが」
 ヴィクトールは声をかけた。
「私はこれで」
「あら、そんなこと言わないでその素敵な士官学校の制服姿をもっと良く見せてちょうだい」
 イレーヌは顔を動かし、ヴィクトールの頭から足先までを眺めた。
「ヴィクトール、私達と一緒にここでお茶をいただかない? せっかく伯母様がいらしてくださったのだから」
 母が勧める。
「マルグリッド、私は確かに貴女の伯母だけれど、幾つも年が違わないのだからその言い方はお辞めになって。そう呼んでいいのはこの子達だけよ」
 イレーヌはうっとりとした視線ををヴィクトールに向けた。
「ごめんなさい、イレーヌ様」
 母は素直に謝った。イレーヌ伯母はヴィクトールにとって大伯母に当たる。親子ほど年の離れた祖父の妹。話好きで詮索好きだが、嫌味のない朗らか性格で、ここジェローデル家では歓待されている。マティルドは正真正銘の伯母で、父アルフォンスの妹に当たる。リディーは従兄妹だ。
「申し訳ありませんが母上、私にはやる事がありまして」
 ヴィクトールは頭を下げた。ここにいても仕方がない。
「そう、それじゃ、ヴィクトール、これを持っていきなさいな」
 イレーヌが皿一杯のガドーをナプキンごとヴィクトールの手にのせた。ヴィクトールは手にのった山盛りのガドーを見つめた。
「マルグリッド、本当に貴女が羨ましいわ。こんな素敵な息子達に恵まれて。あ、マティルドもそうよ」
 イレーヌは扇を手に取ると、ゆっくりと煽ぎながら頷いた。
「フェルディナンは本当に立派で、ジェローデル家の跡取として申し分ないけれど、ヴィクトール、この子にはまた違った華があるわ。ちょっと屈折しているけれど、人を惹きつけずにはいられない何かを持っているわ。ヴィクトール、貴方は幾つになったの?」
 イレーヌ伯母は来る度に同じ事を聞く。
「十七でございます」
「そう」
 扇を揺らしながら伯母は満足そうに微笑む。年は聞くだけですぐに忘れる。そして何時までたっても子供扱いだ。このガドーの山。
「ヴィクトール、貴方は本当に綺麗だわ。年と共に深みが増して、何ともいえないくらいよ。貴方のその魅力は誰にも真似できないわ。持って生まれた幸運を神に感謝しないとね」
 イレーヌは自分の言葉に酔っているようだ。ヴィクトールは可笑しくなった。
「ありがとうございます、伯母上。でもヴィクトールは男でございます。綺麗などと、女を褒めるような言い方はどうも…」
 ヴィクトールはガドーをそっとテーブルの上に置いた。
「そう、それじゃ、美しい‥はどうかしら?」
 イレーヌの扇は揺れる。ヴィクトールは目を伏せた。イレーヌ伯母にはかなわない。そろそろ退散するか。
「そうそう、美しいといえば、王太子妃付きの近衛隊大尉のオスカル・フランソワ、いつもアントワネット様にピッタリくっついて、あれではどちらがアントワネット様の御夫君か分からないわね」
 イレーヌは別の皿に入れてあるガドーに手を伸ばした。
「イレーヌ様、オスカルは女ですわ」
 母もつられるようにガドーの皿に手を伸ばす。
「マルグリッド、そんな事はとうに分かっていますよ」
 イレーヌは笑いながら、母に向けて扇を動かし、そっと口元に当てた。
「オスカルは最近ますます美しくなったわね。私など、鏡の回廊で見かけたりすると、女であると分かっていてもおかしな気分になるわ」
「おかしな気分とはなんですの?」
 マティルドが聞いた。
「イレーヌ様は美しいものに目がないのですわ」
 母にしては知ったような口ぶりだ。
「まあ、おっほっほっ」
 イレーヌ伯母も嬉しそうに笑う。
「母上、私も一緒にここでお茶をいただいてよろしいでしょうか」
 ヴィクトールの言葉に三人の貴婦人は意外そうにそちらに顔を向けた。
「かまいませんよ、ヴィクトール。エレナ、ヴィクトールにもお茶を」
 母は嬉しそうだった。
「まあ。ヴィクトール急にどうしたの?」
 イレーヌの詮索好きな目が光った。
「ここで伯母様方とガドーをいただいた方が美味しいかと思ったのです」
 ヴィクトールは椅子を引いてそこに座った。
「まあ、貴方がこんなお菓子を食べるなんてね」
 先ほど山盛りのガドーを手にのせたくせに。イレーヌ伯母との駆け引きに負けてはいけない。
「ショコラ入りのガドーは大好物でございます」
「そう、じゃあ見たいわ。貴方がそれを食べるところを」
 ねっちりとした目でイレーヌはヴィクトールを見つめた。
 この伯母は嫌いじゃない。お喋りで軽薄そうに見えるがなかなかの論客で、彼女のサロンにはベルサイユでも有名な文化人が集まるらしい。詮索好きも人を見る洞察力に優れ、鋭い論評もユーモアや浮わついた世間話にくるむことができた。決して自分を利口そうには見せない切れ者だった。その上、気配りもでき、人を笑わせる事が好きで、抜群の行動力を誇っていた。
 ヴィクトールはガドーを一切れ手に取ると目の前で食べてみせた。
「まあ、ほほ」
 伯母は満足そうに頷き、扇を揺らした。
「素敵だわ、ヴィクトール」
 目を細め意味有りげに微笑むイレーヌ伯母。幼い頃から慈しんでくれた。若い頃はさぞ美人だったことだろう。
「イレーヌ様、ヴィクトールはいつも首席ですのよ」
 母が自慢する。
「マルグリッド、それは楽しみだわね」
 イレーヌの評価はそのまま一族の評価に直結する。
「イレーヌ様はオスカルをどう思って?」
 マティルドが聞いた。
「一生懸命王太子妃殿下にお仕えしているわ。自分の仕事に誇りを持ってね」
 ヴィクトールはイレーヌを見た。この伯母がオスカルをどう評価するか聞きたかった。

 一学年下のオスカル・フランソワ、彼女が士官学校に入学した時は学校中が大騒ぎだった。初めて女が入学してくるという前代未聞の事に加え、その美貌が注目を引いた。
 日に透ける金色の髪に白い肌。長い手足に細い体。いつも唇をきっちり結び、蒼い目は緊張の色を漂わせていた。
 ヴィクトールも多分にもれず噂の彼女を見に行った。美しいことは認める、でもそれ以外に何もなかった。特例を貫く何かを彼女の中に見つけられなかった。あえて言えば、彼女が将軍家の令嬢で跡取だという事だった。
 入学したオスカル・フランソワは早速学校中の噂になるような事をしてくれた。剣が得意らしく、級友達を次々になぎ倒したとか、授業以外に取っ組み合いの課外活動をしたとか、教官に答えられない質問を浴びせたとか、授業をほったらかして途中で帰ってしまったとか。
 ヴィクトールはそんな話を聞く度に面白くなってオスカルを見に行ったものだった。全く一つ下の学年は揃いも揃って腰抜けばかりが集まったらしい、女に剣で敵わないとは。
 オスカルは最初こそ緊張を漂わせていたが、次第に級友達に溶け込んでいったようだ。人を射抜くような目をしていたのが快活に笑うようになり、彼女の回りに人が集まるようになっていった。それと同時に珍しいものでしかなかったオスカルに反発、嘲笑、批判、そして幾分かの嫉妬、あるいは羨望としか言いようのない様々な評価が下されていった。
 ヴィクトールはオスカルに特別な感情は持っていなかった。ただ興味はあった。それは誰でも同じであっただろう。それをある者は親愛に置き換え、ある者は反感にと、違いこそあれ彼女は常に話題の中心にいた。
 時々オスカルはひょっとして男ではないかと感じさせるほど自然に見える時もあった。学校にも馴染んできていたし、剣でも乗馬でも射撃でも、男以上に腕が立った。ヴィクトールもそれを認めない訳にはいかなかったが、一つ下の学年と自分達の学年ではオスカルに対する評価が違っていた。概ね一つ下の学年の方が彼女に対する友愛の情が深く、ヴィクトールの学年では反感をあらわにする輩が多かった。
 ただオスカルにはいつも帰りにジャルジェ家の馬車が迎えにきており、彼女と幾つも違わない黒い髪の年若い従者が付いていた。従者が変わることはなかった。彼はいつもそこで待ち続け、授業の終ったオスカルが嬉しそうに馬車に乗り込むのを見て、ヴィクトールはオスカルが将軍家の令嬢である事を改めて認識するのだった。

「オスカルを王太子妃付きにしたのは良かったと思うわ。誰もオスカルのように妃殿下をお守りする事はできないでしょうね」
 イレーヌ伯母が言う。
 ヴィクトールは王太子妃殿下に従うオスカルを思い浮かべてみた。ヴェルサイユ宮に行けばオスカルやマリー・アントワネット王太子妃殿下を見る事が出来るのだが、宮廷でなされる舞踏会や様々な行事には興味が無かった。それは兄のフェルディナンがきっちり役目を果たしてくれていた。
 そういえばオスカルとアントワネット王太子妃殿下は同じ年だったはず。ヴィクトールがぼんやり考えているとマティルドが言った。
「私はオスカルはあまり好きにはなれませんわ。若いのに生意気そうで。愛想の一つもありませんわ」
「マティルド、オスカルの仕事は愛想笑いではありませんからね」
 イレーヌ伯母の口調は柔らかく、とぼけたようでありながら、常に核心を突いてくる。
「それはそうですけれども… イレーヌ様、オスカルがあの若さで王太子妃付きになれたのは一体何故なのですか?」
 マティルド伯母にはオスカルの大抜擢が不服らしい。
「まあ、国王陛下のご命令だから仕方がないわね」
 イレーヌ伯母はあっさりと言った。

 オスカル・フランソワが士官学校にいたのはほんの僅かの間で、彼女はオーストリアから嫁いでくるマリー・アントワネット付きの近衛士官として宮廷に上がるために居なくなった。
 まだ士官学校も終えない若輩者のオスカルの抜擢は当時級友達の間にも不服と不満を広げた。一体彼女にどんな手柄があったというのだ。士官としての教育も確かでない、しかも女にそんな大役が務まる訳がない。彼らは自分達より年若いオスカルの栄誉を妬んだ。もしかしたら将来自分達が彼女の下につくかもしれない。そんな事まで心配する輩もいた。
 ヴィクトールは平静だった。我がフランス宮廷は実力や才能が正しく評価される所ではないという事を皆は忘れているのか。家柄や身分さえも無視されるというのに。
 平民出の寵姫達が跋扈し、国王陛下を自由に操ってきた。出世したいのなら、腕や能力を磨くより、寵姫達に気に入られるよう努力した方が早道という訳だ。しかしそんな事をして手に入れた誉に何の意味がある。
 人の幸運に嫉妬したり、つまらぬ評定に腐心している暇があったら、自分の腕を磨くことだ。誰かに評価してもらう為ではなく、ただ自分の満足の為に。自分の能力を開花させ、より高める為に努力する事は楽しくはないか。ヴィクトールの信念だった。今若いヴィクトールには気力に思うまま能力がついてくる事が面白くてたまらなかった。
 ヴィクトールはオスカルにむしろ同情さえした。彼女の何かが評価された訳ではない。オスカルはあの美貌でオーストリアから輿入れしてきたアントワネット王太子妃殿下を飾る飾りになったのだ。飾りとしてはこれ以上ない位上出来ではないか。
 ヴィクトールはオスカルに関心は無かった。無かったが、あの金髪としなるように柔らかい細身の体を見かけなくなり、どこで聞いても彼女のものだと分かる声が聞こえなくなったことが寂しいと思った。そして、彼女にいつも影のように付いていた黒髪の従者も見かけることは無くなった。

「アントワネット様は安泰だわ。オスカルが付いている以上滅多な事は起きないでしょう」
 イレーヌ伯母は自信たっぷりに言う。その自信の裏付を披露してもらいたいものだ。
「だって、ほら」
 イレーヌは内緒話でもするように声をひそめ扇を動かした。その動きに寄せられるようにして二つの頭がイレーヌの顔に近づいた。
「オスカル以外の近衛士官を王太子妃付にしたとして、もし彼とアントワネット様に何かあったらそれこそ大変な事になるでしょ」
「まあ、伯母様ったら」
「いやですわ」
 イレーヌの種明かしに息をひそめていた二人は声を上げた。
「だけど今度はオスカルが危ないわ」
 イレーヌは何かに気づいたように不安そうに瞳を巡らせた。
「何ですの?」
「どういう事かしら?」
 イレーヌは扇を使ってもう一度二つの頭を集めた。
「国王陛下が…」
 扇の下で三組の瞳が動いた。
「国王陛下のお手が、オスカルに…」
「まあ、いやですわ!」
「おほほほほ!」
 三つの頭は同時に遠のき、扇がはためき、粉白粉が舞った。
「伯母様ったら」
「何をおっしゃるかと思えば」
 三つの扇がうち震える。
「冗談よ。でも冗談とも言えないわ、あの国王陛下なら」
「伯母様ったら、およしになって」
 母は目に涙をためていた。
「マルグリッド、伯母様じゃありませんと言ったでしょ。でもジャルジェ将軍も心憎い事をなさるわね。あのオスカルを男として育てたなんて。何て素晴らしいんでしょう」
 イレーヌは大袈裟な身振りで宙を見上げた。
「ごめんなさい、イレーヌ様」
 イレーヌ伯母は母の言葉など聞きもせず続けた。
「ジャルジェ将軍も若い時はとても素敵だったのよ。でも堅くてね。二言めには私は軍人ですから、とこうよ」
「聞いたことがありますわ、ジャルジェ将軍って、愛人の一人さえもいらっしゃらないって本当ですの?」
 マティルドが興味を引かれたように身を乗り出した。
「本当よ。でも魅力がないというのとは違うわ。そうね、変わっているのよ。あそこの家は皆そう、変わっているの。オスカルも変わっているわね、将軍にそっくりだわ」
 イレーヌの横顔は真面目そうに引き締まり、悲しげな表情が一瞬浮かんだ。
「イレーヌ様、オスカルにいつも付いている黒髪の青年は、実は平民だって、本当ですの?」
 マティルドは大問題を発見したように言った。
「そうらしいわね。彼はオスカルが宮廷に上がった時からずっとついているわ。目立たないけれど、オスカルにとっては必要な存在かもしれないわ」
 ヴィクトールはそれが毎日士官学校にオスカルを迎えに来ていた従者だとすぐに気がついた。同時に姿を消した二人はそのまま宮廷で、かつてと同じように一緒に居るというわけだ。
「アンドレはジャルジェ家が特別にお願いして上がらせたらしいわ。オスカルも大役だし、彼女を補佐する役目も必要なのよ。それが結局王太子妃殿下をお守りする事になるのですものね」
 マティルドは不満そうに黙りこくった。
「アンドレはなかなか利発だと思うわよ。オスカルの見ていないところを見ているわ。オスカルの気づかないところに気づいているわ」
 宮廷にいる二人の姿がありありとヴィクトールの目に浮かんだ。それはあまりに自然な姿だった。今まで二人を見たのはオスカルが馬車に乗り込むその時だけでありながら、何故こうも鮮やかに見えるのだ。
「まあイレーヌ様はとても良くお気づきになるのね。私など毎日宮廷に伺ったとしても、とても気がつきませんわ」
「マルグリッド、年上をからかうものじゃありません。アンドレは顔立ちも良いし、礼儀作法も身についているし、他の貴族と比べても遜色はありませんよ。なにしろあのオスカルと一緒にいてもおかしくないのですから」
「そうね、あの二人が一緒にいると、それぞれ一人でいる時よりもずっと素晴らしくみえるのは何故かしら」
 イレーヌはマルグリッドを見つめた。そしてその表情からその中に何があるのか、嘲笑か、単なる同調か、それとも本心からの発露があるのか見極めようとした。
 マルグリッドはお嬢様育ちの人を疑う事を知らない少女のように無垢な顔をしていた。夫のアルフォンスは抜け目のない世渡りの上手な才気走った男なのに。そんな二人だからこそ、うまくゆくのかもしれないが。
「イレーヌ様、スービーズ侯爵はどうなさいましたの? アネットは彼になんと言って?」
 マティルドが話を変えた。
「伯母上、私はこれで失礼します。とてもよいお茶をいただきました」
 ヴィクトールはイレーヌの話が始まらないうちに席を立った。
「あら、もう行くの? 用は済んだのね?」
 イレーヌが微笑みかける。
「はい、伯母様方といただいたガドーはいつもより美味しく感じました」
「そう、それじゃ行ってらっしゃい。ガドーが食べたくなったらいつでもいらっしゃい。今度は家にね。いつでもとびきり美味しいのを用意しておくわ。これからも園遊会とか色々有るのよ」
 イレーヌは意味ありげな視線をヴィクトールに投げて寄越した。


 ヴィクトールは部屋に戻ると銃の用意をしてホールに向かった。伯母達のお茶に付き合って遅くなった。ホールに出ると外から走りこんで来た人影が目に入った。リディーだった。
「こんにちは、ヴィクトール」
 リディーは赤く上気した頬をしてヴィクトールに気づくと声をかけた。リディーは淡い薄緑色のドレスを着て、胸元のリボンやドレスに散らした薔薇の花飾りやレースやモールで、これ以上出来ないくらい派手に仕上げていた。肩も胸も大きく露出させ、謹みのない格好だったが、ドレスに比べて小さくまとめられた髪がそれらの線をきれいにみせていた。
「久しぶりだね、リディー」
 ヴィクトールはリディーに軽く微笑むとホールを出ようとした。
「ヴィクトール」
 リディーはヴィクトールの前に道を塞ぐように足を踏み出すと正面に立った。
「私十六歳になったのよ」
 そんなこと分かっている。イレーヌ伯母じゃあるまいし、一つ年下の従兄妹の年を忘れる訳はない。
 リディーはヴィクトールの前に手を差し出した。
「子供みたいな扱いは嫌」
 ヴィクトールはため息をつくとリディーの手を取り、鼻先に持っていった。
「ゆっくりしていってくれ、リディー」
「待って、ヴィクトール」
 銃の箱を抱えてホールを出て行こうとするヴィクトールを引き止めるように、リディーが言った。リディーはヴィクトールの腕を掴むと身体の向きを変えさせ、自分の正面を向かせた。
「ヴィクトール私の事どう思って?」
 リディーはつま先立ってヴィクトールの顔に近づき、瞳を覗きこんだ。甘い蜜のように濃厚な女の匂いがヴィクトールに絡みついてきた。
「どうって、どういうことさ」
 ヴィクトールも負けずにリディーの瞳を見つめ返した。
「私は貴方に見つめられると胸がドキドキするわ。ほらこんなに」
 リディーはヴィクトールの手を掴むと自分の胸に持っていった。ドレスの上から左の乳房に導くと両手でしっかりと押さえつけた。
「やめろよ!」
 ヴィクトールは力を込めて手を引き抜いた。リディーはその力の激しさに驚いたように息を詰めたが、唇を噛み締めると顎を上げ、ヴィクトールを見た。
 リディーの形のいい眉が眉間に寄り、憤怒の様を示していた。ヴィクトールも視線を離さなかった。リディーは顔を上げ、胸を反らせ、顔を真っ赤にしてヴィクトールを見ていた。細い肩をいからせ、身体をよじるようにしながらも、顔はヴィクトールを見つめたままだった。ヴィクトールはリディーの顔をみながら片手で剣を探った。腰から外し手に持つと、その手を離した。大理石の床に落ちた剣は大きな音をたてた。リディーがはっとしたように身体を離した。
「どうしました、ヴィクトール様」
 侍女のエレナが音に驚いて飛び出して来た。
「なんでもない、剣を落としただけだ」
 ヴィクトールは言いながらも剣を拾おうとはしなかった。リディーは身体をひるがえすと広がるドレスも構わずに客間へかけ込んだ。


 ヴィクトールは剣を拾うとホールを出た。そこでもう一人の人物に会った。兄のフェルディナンだった。
「ヴィクトール」
 フェルディナンはホールの外側の壁に寄りかかっていたが、ヴィクトールに気がつくと歩み寄ってきた。
「ヴィクトール、どうした。リディーにキスの一つでもしてやったのか?」
 ヴィクトールは足を止めた。フェルディナンは面白いものでも見るような目をして、うっすらとした笑みを浮かべていた。
「リディーは兄上の恋人でしょう」
 六歳年上の兄フェルディナンはジェローデル家の長男として、社交界でも注目を集めていた。彫刻の様に端正でありながら男らしく精悍な顔立ち。体格も良く、それでいて均整のとれた体躯。万事そつなくこなす才覚と洗練された物腰。非の打ちどころがないと評される父母の自慢の息子だった。
「馬鹿いえ、リディーは従兄妹だぞ」
「従兄妹でも…」
 言いかけてヴィクトールは口をつぐんだ。
「リディーはジェローデル家の二人の男を陥落させたと言いたいだけさ」
「馬鹿馬鹿しい」
「女の虚栄心に付き合ってやれなくてどうする」
「そんなものに付き合う気などありません」
「ヴィクトールお前は子供だな。女のプライドを踏みにじるなど最低だぞ」


 ヴィクトールは唇を噛んだ。ずっと兄の後をついて手本にしてきた。なんでも兄の真似をし育ってきた。フェルディナンは弟想いだったし、兄の言う通りにして間違いはなかった。でももう子供じゃない。兄と自分とは違う。
 フェルディナンは腕を組みながらヴィクトールの周りを回るように歩き、時々様子を見るようにヴィクトールの顔を眺めた。
「男は女に愛と敬意を持って接し、かつ優雅にあしらえなくてはならない」
 フェルディナンはヴィクトールの反応を楽しんでいるようにも見えた。
「そんな事、必要とあれば何時でもやってみせます」
「先ほどのは優雅とは言えなかったぞ」
 ヴィクトールはフェルディナンを見た。フェルディナンはヴィクトールの勝気な瞳を受け止めるとそれを徐々にそらしていった。この目、意味ありげな兄のこの視線に深入りしてしまった女は数多くいたに違いない。

 ジェローデル家嫡男フェルディナンの一番の才能は女に対するものだったかもしれない。女のどこをどう押せば女が喜ぶか心得ていて、彼の周囲には常に女が集まっていた。焦らすような、誘うようなキスの仕方や、虚栄心をくすぐるささやきや殺し文句。時、場所、タイミングを外さず、女を陶酔の極みにもっていき、恍惚の彼方へやってしまうあらゆる手練手管に彼は精通していた。
 ヴィクトールにもどうすればよいのかくらいはフェルディナンに教わらなくてもわかった。ジェローデル家の次男坊ヴィクトールは跡取息子の様に宮廷に出る機会が無いだけに、秘められた宝のように人々の、特に婦人達の噂を集めていた。
「要は女の虚栄心をどれだけ満足させられるかさ」フェルディナンは言う。そんな事だろうとは思っていたが、いざ兄に奥儀を伝授されてしまうと、どうにも白けた気分になった。毎日服を着替えるように女を取り替え、日に何度か食事をするように恋をするのだろうか。
 女の意味ありげな視線や誘いが分からぬ筈はない。恋愛よりも駆け引きが面白いと思う事もある。すれ違う女の視線に答えるだけで、たちまち恋が一つ出来上がる事も分かっている。ただヴィクトールは小手先の手練手管で簡単に手にはいる女や恋に魅力を感じなかった。男も女も己の虚栄心を満たすために恋をするようなそんな気がして釈然としなかった。何人の恋人がいるとか、これだけ大勢の異性に囲まれているとか。
 女の魅力に陥落させられたようにみせかけて女を翻弄し、自由に扱い、体も心も奪い尽くしてしまうのはフェルディナンの方だった。それでも女が嬉しそうなのだからそれはそれでいいのかもしれないが。優しそうにみえるフェルディナンの表情の中に猛々しく、時として荒れ狂う男の性癖を見抜いている女はどれくらいいるだろう。だがフェルディナンの見事なところはどんな年の、どんな身分の、どんな女と付き合っても決してトラブルを起こさない事だった。誰も皆、フェルディナンに惚れ抜き心酔しきっていた。

「兄上はこんな遊びの恋愛ばかりで楽しいのですか」
 ヴィクトールは兄にささやかな敵意を込めて言った。
「本気の恋愛がそうあると思うなよ」
 フェルディナンは相変わらず笑みを浮かべていた。
「本気の恋愛など一生に一度か二度。一度もめぐり会わずに終る奴もいる。それだって成就するかどうかなどわからない」
 フェルディナンの目に強い光が宿った。今日の兄は本気かもしれない。
「兄上は本気の恋愛はなさらないのですか?」
 兄に挑むように言ってみた。
「馬鹿にするなよ」
 フェルディナンの組んだ腕に力が入るのが分かった。こんな時の兄は恐いくらいだ。優雅などとんでもない。
「お前にもそのうちわかるよ」
 口の端だけでフェルディナンは笑った。兄と喧嘩をする気はない。ヴィクトールは銃の箱を持ち直した。
「おい、こんな時間にどこへいくのだ」
 フェルディナンが気づいたように言った。
「学校へ」
「だって今帰ってきたばかりだろう」
「今度学校で射撃大会があるんです。それに優勝したいので、少し練習してきます」
 ヴィクトールは兄の前を通り過ぎた。
「あ、リディーには失礼したと伝えておいてください」
 振り返ってつけ加えた。


 シモンがリュミエールに水をやり、ブラシをかけ休ませてくれたのでリュミエールはまた走りたそうだ。リュミエールはヴィクトールの一番気に入りの馬だ。栗色で濃い色のたてがみ、額に白い十字の印がある。星のようだ。そしてよく走る。
「シモン、リュミエールを出してくれ」
「ヴィクトール様、どちらへ」
「学校へ行く。すぐに帰る」
 ヴィクトールは銃の箱をリュミエールにくくりつけると手袋をはめた。リュミエールに跨り一鞭振るうとリュミエールは疾風のごとく走り出した。


 リュミエールだと学校まで一走りだ。ヴィクトールはリュミエールを士官学校の厩に繋ぐと射撃場へ向かった。
 射撃場は学校の一番奥にある。毎年行われている射撃大会には上級生を差し置きずっとヴィクトールが優勝してきた。いや、ずっとじゃない。一回だけヴィクトールは負けた事があった。下級生の、それも女に。入学した最初の射撃大会でオスカル・フランソワは優勝したのだ。それはヴィクトールが入学した年に優勝し、初めて一年生が栄冠を勝ち取ったと話題になった時より人々を驚かせた。そしてそれを置き土産にオスカル・フランソワはいなくなった。
 ヴィクトールは射撃場に向かう廊下でそれを思い出した。忘れたつもりになっていた苦い思い出。忘れる訳などとうていあり得ないのに。
 下級生の、しかも女に昨年の最年少優勝者がに負けたとあって、ヴィクトールの自尊心は滅茶苦茶に傷ついた。友人は彼女の優勝はまぐれだと言ったが、まぐれで射撃大会に優勝できる訳がない事をヴィクトールは知っていた。多少とも銃を扱った事のある者ならそんな事は常識だ。ヴィクトールはつまらぬ慰めを言った友人を憎んだ。ヴィクトールは自分のプライドを守る為、その事実を心の奥底に沈めたのだ。
 何故今こんな事を… これから射撃場に向かうのに精神が統一できない。精神の乱れは銃に真っ先に影響する。銃とは腕や技術で撃つものじゃない。精神で撃つものだ。銃とは精神力の勝負だ。精神が研ぎ澄まされ、何事にもぶれることのない者が優勝する。
 あの日最後に残ったのはヴィクトールとオスカルだった。どちらも的を外さなかった。息詰まる撃ちあいが続いた。なかなか決まらない勝負にヴィクトールは嫌気がさし、オスカルを見た。女のくせに、一瞬昇ったこの思いが勝負を決めた。
 ヴィクトールが的を外した。次はオスカルの番だ。これを外さなければ優勝だ。誰だってそう考えるに違いない。勝利を焦る気持ちが、ここで外せない緊張が、引き金を引く手に伝わる。そして大きく的を外す事だってある。しかしオスカルは少しの動揺も見せずに、平然と的を打ち抜いた。
 優勝を決めてもオスカルはさして嬉しそうでもなく、どっと彼女の回りに集まる級友達に頷いただけだった。呆然と見つめるヴィクトールにオスカルは遠慮がちに手を差し出した。動揺していたヴィクトールはそんな事に気づきもせず、その場を立ち去った。だからヴィクトールは知らなかった。級友達にもみくちゃにされたオスカルの顔がだんだん薔薇色に上気し、彼女に祝福を送る多くの手を頭に髪に受けながら、嬉しそうに笑ったのを、知らずにいた。

 伯母達のおしゃべりに付き合ったのがいけなかった。ヴィクトールは少しばかり後悔し、廊下を中庭に抜ける方向に曲がった。ひんやりした廊下を歩き、中庭に通じる扉を開ける。中庭はまだ充分に明るい午後の日差しが溢れていた。
 ヴィクトールはそこに人がいるのに気がついた。ここまで誰にも会わなかった。誰だ? 降り注ぐ光の中にその人影は忽然と現れたようだった。この学校の者ではない。金髪で白い軍服を着ている。こちらに背を向けて、中庭に面した廊下の柵に肘をつき、もたれるように光の方を眺めていた。軍服を着ているが細身の体、まだ少年兵だ。
 扉の開く音に気づいたらしく、相手もこちらに顔を向けた。
 ――オスカル・フランソワ。
 ヴィクトールの心臓が大きく動いた。
 オスカル、何故オスカルがここに? 彼女は王太子妃付き近衛士官としてヴェルサイユ宮にいるのではないのか?

 その人物は間違いなくオスカル・フランソワだったが、ヴィクトールは一瞬見間違いではないかと思った。少し見ないうちに彼女は様変わりしていた。
 背が伸び、肩まで届くくらいだった髪も背に広がり、豪華に波打っていた。まだあどけなさの残っていた顔も輪郭が引き締まり、大人の顔になっていた。
 ヴィクトールはオスカルの鋭いまでの美しさに驚いた。オスカルはこんなではなかった。もっと可愛らしく、少年らしく、無邪気だった。友人達と走り回ったり、笑い合ったり、話したり、屈託のない子供だった。子供でもオスカルは美しかった、それは分かっていた事。でも今目の前にいるオスカルは…。
 もうオスカルは子供ではなかった。白い肌はますます白く凄みさえ増し、蒼い瞳は輝きながらも微かな愁いを秘めたように見えた。そして唇。オスカルの感じがこうも変わったのは唇のせいだ。ヴィクトールにはすぐに分かった。かつてそれはいつもきっちり結ばれていて、強い意志と緊張を感じさせた。それでなければ、号令をかけるか返事をする時の大きく開けた口が印象に残っている。よく通る澄み切った声と精一杯の唇の動きが可愛らしいと思ったものだ。

 けれど今は…。
 オスカルの唇は朝露に濡れた薔薇を思わせるように瑞々しく、そっと閉じられていた。それが白い肌に映えて本当に薔薇の花びらのように見えた。それは透明な露のように清くありながら、ヴィクトールの男の何かを揺さ振らずにはいられない妖艶さも持っていた。この唇がオスカルが女である事を雄弁に語っていた。軍服を着ているが、その下に息づくオスカルの女の体がたやすく想像できた。
 オスカルの唇がほんの少し開いた。何かを言おうとしてか、それともただ息をするだけか。いずれにしても、その動きはたまらなく思わせぶりだった。
 次に唇がどう動くのか、ヴィクトールは黙ってオスカルを見つめていた。柵に置かれた手は手袋をしていなかった。その手が柵から下ろされる。ヴィクトールはオスカルの僅かな動きにさえ目を奪われた。愁い顔に見えるのは瞳のせいか。深い蒼の奥に小さな影が見えるのは気のせいか。

 見違えるようなオスカルの姿に驚くばかりだったヴィクトールは、オスカルがこうも変わったのは彼女の置かれた環境にあるのだと悟った。王太子妃殿下を飾る飾りだなどと思った自分が恥ずかしかった。オスカルは二年も前から大人の世界で、大人の責任を負わせられ生きてきたのだ。その重責は大人以上だ。もし王太子妃殿下に何かあったら、それは世界中を巻き込む戦争に発展するかもしれないのだ。白い軍服が近衛隊大尉のものだという事にヴィクトールは初めて気がついた。
 オスカルとアントワネットをままごと遊びのようだと評した事もあった。ただ二人が十四歳というだけで見たこともなかったのに。わずか十四歳で、オスカルは大人の世界へ放り込まれたのだ。アントワネット妃殿下がどう思っているか知らないが、オスカルは遊びでいられる筈がない。常に緊張を強いられ、張り詰めていなければならない。
 ヴィクトールはオスカルが自分よりずっと大人になってしまった様に感じた。共に競った射撃大会の頃より、ずっとずっとオスカルが遠くに行ってしまったように感じた。射撃大会が何だ。それに勝ったからといって実戦には程遠いではないか。ヴィクトールは今まで積み上げてきた自分の努力と実績が崩れ去っていくような気さえした。
 なんという事はない。自分が努力してきた様にオスカルも努力してきたという事だ。それが彼女をここまでにした。人を見ればその者がどのように過ごしているか分かるというのは本当だ。

 ヴィクトールもオスカルもしばらくお互いを見つめていた。白い近衛服に金髪が揺れる。オスカルは寸分の隙も無い完璧さでヴィクトールの前にいた。何故今までヴェルサイユ宮に行こうとしなかったのだろう。ヴィクトールは過ぎた年月を後悔した。ヴェルサイユ宮殿は将来自分が伺候するであろう場所でありながら、陰謀と虚栄の渦巻く世界のような気がして行く気にならなかった。伯母達に宮廷の様子を散々聞かされて、変な先入観を持ってしまったか。
 オスカルはもう唇を開くこともなく、軽く目を伏せ目礼すると、ヴィクトールの側を通りすぎた。爽やかでありながら、一度触れたら二度と忘れられない香りがした。どの薔薇だろう。ヴィクトールは神経を嗅覚に集中させた。今までどの女からもしたことのない、優美でありながら後を引かない、それでいて人の記憶に刻み込まれ離れない甘い匂いだった。
 ヴィクトールはオスカルの背中に手を伸ばしかけ、その手を握りしめた。
(どうしようというのだ。何を話しかけようというのか…)

 ヴィクトールはそこに立ちつくしたままオスカルが出て行った扉を見つめた。
(オスカル、何故こんな所に…)
 ヴィクトールは信じられない気持ちで今目の前で見た事を反芻してみた。ヴェルサイユ宮にいるはずのオスカルが何故ここに? ここで何をしていたのだ。彼女はただ立って中庭を見ていた。供も付けずたった一人で。そうだ、あの供はどうしたのだ。ヴィクトールはそれに気がついた。学校の前に馬車は見なかった。そういえば厩に一頭白い馬が繋がれていたが、あれがオスカルの馬だったのか。だとしたら本当にオスカルは一人でここに来たのだ。もう来なくていいはずの所なのに…
(オスカル)
 ヴィクトールは追いかけて捕まえてしまいたくなる衝動をやっとの思いで押しとどめた。一瞬触れたオスカルの甘い匂いがヴィクトールの感覚の奥深いところに永遠の記憶を刻みつけた。それはオスカルが生まれた時から持っていた柔らかな少女の証だった。



Fin































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