2003 7/4

銀の月と小さな花 X




 階段を駆け上がる大きな音が聞こえた。
「シルビー! ついに選挙が始まるよ。パリの代表が決まるんだ」
 けたたましい音と共にフランソワが駆け込んできた。彼はずっと走ってきたのだろうか、息を切らせ、こめかみに汗を浮かせていた。
「新しい世の中が来るんだ。自由で平等な世の中が!」
 彼は部屋に入るなりシルビーを見つけると駆け寄り、突風に吹かれ戸惑ったような彼女を力一杯抱きしめた。
「フランスがついに動き出す」
 暑い日だった。彼は力を込めた腕を解きシルビーを胸から離すと彼女に言い聞かせるように言った。
「フランスは生まれ変わるんだ。新しい世界が始まるんだ」
 フランソワは今度はゆっくりとシルビーの腰を引き寄せた。彼は腰から徐々に体を密着させ、片手で彼女の指を握りしめた。
「そうしたら一緒に暮らそう」
 シルビーは背を反らせ、目の前に迫るフランソワの瞳を見つめた。彼の瞳はいつも明るくて眩しい。それは少年の目だった。この世の汚れを知らないどこまでも明るい瞳だった。
「シルビー、返事して」
 フランソワの瞳が迫った。
 あたしはそんな目で見つめられるとお日様に照らされた氷のように溶けてしまいそうになるよ。シルビーはフランソワの勢いに気圧されるように頷いた。
「嬉しいよ、俺頑張る」
 彼の腕に力がこもる。シルビーは唇にいつもより熱っぽいフランソワの唇を感じた。襲ってくる甘やかな陶酔。男からこれほどの幸せを与えられるとは知らなかった。彼女はフランソワの肩に腕をかけ口づけに応えた。
 でもこれは夢。心の中の醒めた点が囁く。わかっている… 新しい世界を待ち望むように幸せを夢見ても良いでしょう。あたしは夢を見て諦める事には慣れている。夢を見せて。夢なら誰にも迷惑はかけない。夢はあたしだけのもの。心は自由ですもの、夢を見せて…
 目を開けると頬を上気させたフランソワが見えた。
「三部会が始まったらヴェルサイユに詰める。俺達がフランスの代表を護るんだ! 皆張り切っている。俺だってやるよ! 祖国の為に、大切な者の為に頑張る」
 フランソワが大きく見えた。彼女は未来を語る彼に今まで感じた事のない男を感じた。彼は随分大人っぽくなった。最初に会った時よりずっと…
 フランソワ、男は自分を傾けるに足る大きな仕事があると輝くんだね。理想の中に自分を投げ込んで燃焼する。あなたの瞳を見ていると男は未来の中に生きるのだと思う。男ってそうなんだね。



 フランソワを見送りシルビーは花の水を替えた。遅れに遅れたパリの選挙が開始されるというニュースは瞬く間にパリ中に広がった。人々は喜びを分かち合い、彼らの期待は街全体をおおった。通りはニュースを伝え合う人で溢れた。三部会にかけるパリ市民の期待は予想以上だった。彼女も三部会に期待しない訳ではなかったが、自由で平等な世の中と言われても想像がつかなかった。今より暮らしやすくなるということだろうか。それより彼女には気にかかる事があった。
 ラウルにフランソワの事を知られた。だがあれから彼は何も言ってこない。フランソワも何も言わない。多分ラウルはフランソワに手を出してはいない。ラウルが金を差し出してまで話を聞き出そうとするからには、単なる興味だけではないはずだ。彼は難癖つけて獲物からより金を巻き上げるか、それが出来なければ喧嘩を吹っかけて相手を酷い目に合わせるかのどちらかだった。ラウルはそういう男だ。彼はフランソワの事をわかって手を出さないのかそれとも知らないのか‥。
(用心棒の真似事くらいできるかもしれない)
 アランの声が聞こえたような気がした。



 パリの選挙は特に混乱もなく終った。巷では当選した候補と落選した候補の双方が支援者を巻き込んで様々な人生模様を繰り広げたが、大方のパリ市民は代表が決まった事に歓喜と安堵をみせていた。三部会の平民代表議員がフランスを変えてくれる。このどん底の生活から救ってくれる。人々はそれを信じていた。
 シルビーは窓から通りを眺めた。ここからどれだけのものを見ただろう。市民達の期待やいさかい。貧しさと富。様々な色の軍服と行き交う人々。兵士達の中で一際輝く金の髪と後姿で誰だか分かる軍服の背。いつも窓を見上げ手を振る明るい髪。埃っぽい喧騒に満ちた通り。愛するパリの街。
 だが期待に満ちた足元で疲弊しながら朽ちていくより弱い者がいる。家のない者、病気の者… 早くして。新しい世の中が来るのなら早く来て…。シルビーは遠くの教会の屋根に祈った。



 夜、フランソワがやってくる夜だった。すました耳にそっと階段を上がる音が聞こえた。シルビーは彼よりも早く戸を開け恋人を迎え入れた。彼は何年も会えなかった恋人を抱くようにシルビーを抱きしめる。隔てられていたもどかしい時間に追い立てられるように二人は互いの服を脱がせていく。狭い粗末な部屋で渇きを癒す水のように恋人達は肌を求め合った。
 ベッドの上でシルビーはフランソワの体につかまり歓喜の声をあげる。数限りない男と様々な性の形態を共有してきた。だが彼女は一度もそういった行為に喜びを感じる事はなかった。男達が興奮すればするほど、彼らが熱くなればなるほど、彼女は醒めていった。冷静に残り時間を計り、感極まりない演技をし、身体の損傷を最低限にする為あらゆるテクニックを使った。それは単純作業であり、およそ愛とはかけ離れた行為であった。あまりに慣れてしまった為、嫌悪もなければ感慨もない日常だった。
 シルビーはフランソワの肌に爪を立て貪欲に彼を求めた。彼の何が欲しいのか、魂なのか肉体なのか、それさえわからないほど彼に没頭した。自分がこれほど男の身体に執着をみせるとは思わなかった。彼女は体の奥から溢れてくるものの流れを止めることができなかった。それをせき止めてしまっては体の中で何かが爆発しそうで怖かった。その流れを全部フランソワに預けた。彼の体に乗り昇りつめていく快感。頂点に達する極みとそれに伴う脱力。ベッドに崩れ落ちる間もなくフランソワに貪られ彼の自由にされる。彼の前に全てを投げ出す陶酔に羞恥をも見つけた。何もかも初めてのことだった。


 フランソワは腕を伸ばしベッドの柵に掛けた服のポケットから何かを取り出した。彼はそれをシルビーの手に持たせた。彼女の手から鎖がこぼれた。その先には木彫りの聖母子像が付いていた。
「何?」
 シルビーはフランソワを見上げた。体の中にまだ残り火を抱えたような熱さが残っている。それが心地よいだるさとなって体を支配していた。
「シルビーに持っていてもらいたいんだ。本当は銀か金の物をあげたいのだけれど‥ 今はそれしかないから‥。母さんの形見なんだ」
 彼女は鎖を目の前に掲げてみた。彼の母の形見。彼を生んだ人の胸にずっとあった物に違いない。
「大切な物じゃないの…」
 彼女は鎖を彼の手に戻した。
「シルビー、いつかきっと金の指輪を買うよ。だからそれまで持っていて」
 フランソワはもう一度シルビーの手にそれを持たせた。彼女は彼の胸に体を預け目を閉じた。
 フランソワ、あたしは段々我が侭になっていく。あなたの母さんの形見もらっておくわ。これはずっとあたしのもの。あなたが他の誰かの所に行ってしまっても、これはあたしの元に残るのよ。男が明日の中に生きるのなら、女は思い出の中に生きるのかもしれない。シルビーはそっと鎖を握りしめた。



 約束の日でもないのにフランソワがやってきた。
「どうしたの、今日は違うでしょう」
 シルビーは慌てて肩に羽織っていたケープを外した。
「ごめん、どうしても会いたくて」
 彼は小さな声で言った。
「帰りなさい」
 シルビーは外したケープをもう一度肩にかけると鏡の前に座った。彼女はブラシで髪を撫でつけ、たっぷりとした白粉を顔にはたきつけた。
「シルビー、なぜ化粧なんかするの? そのままの方がずっと綺麗だよ」
 フランソワはシルビーの後に立ち鏡の中の彼女を見つめた。
「今日はこれから仕事なんだよ」
 シルビーは鏡に向かいながら顔から首に白粉を塗った。鏡の中のフランソワの悲しそうな顔が目に入った。
「化粧はね、これから戦いに行くあたしにとって鎧なんだよ。素顔なんか晒せるかい」
 シルビーは毒々しいほどの赤できつく紅を引くと頬紅に手を伸ばした。鏡の中からフランソワの姿が消えた。彼女が振り返ると彼は背を見せ部屋を出て行こうとするところだった。
「ごめん、俺帰るよ」
 フランソワは振り返りもせず部屋を出て行った。シルビーは頬紅に伸ばした手を止めた。これでいい。彼は現実が見えただろう。少しばかり夢から覚めるのが早かったのは残念だったが、フランソワにとっても自分にとってもその方が良いだろう。彼女は縁の欠けた煤けた鏡を眺めた。目覚めるといつもそこにある現実。濃い化粧の派手な女。パリの娼婦。シルビーは首にかけた鎖を外し鏡の前に置いた。




(あぶない!)
 咄嗟によけたが遅かった。肘に激痛が走ったかと思うと全身を石畳に叩きつけられた。シルビーの目の前を馬車の車輪が土ぼこりを上げ通り過ぎた。彼女は石畳の上にうずくまり顔を上げた。遠ざかる馬車が見えた。
「大丈夫か!」
 誰かが駆け寄る気配を感じたが彼女はもう顔を上げられなかった。したたかに打ち付けた体中が痛くてたまらない。
「何て馬車だ」
 地面に這いつくばる彼女の目に黒い靴先が映った。体を起こそうとして今度は手首に激痛が走った。手首も捻ったらしい。シルビーの側に駆け寄った人物は彼女を助け起こすように彼女の体に手をかけた。助けはいらないと彼女は身振りで示そうとした。だが声は出なかった。あまりの痛みで息さえ止まりそうだった。彼女の脳裏に走り去る馬車の後輪が刻まれた。ちらりと見ただけだったがあれは貴族の馬車だった。質素にしていたが間違いはない。一刻も早くここを通り抜けたいという気持ちなのだろうか。貧しい平民を引っ掛けたところで彼らはねずみを踏みつけた位にしか思っていないだろう。
「立てるか?」
 声にようやくシルビーは顔を上げた。目の前に一人の兵隊。黒い髪に黒い目。青い軍服。彼は彼女の肘を取った。
「ひどい傷だ。手当てしなければ‥」
 シルビーは痛みに耐え首を横に振った。
「こんな狭い通りをあんなにスピードを出して‥ 人を轢いたらどうするつもりだ」
 彼はもう見えなくなった馬車の行った先を見た。シルビーは徐々に落ち着きを取り戻したが、まだ声は出なかった。足が丸見えだと思ったら服の裾が引き千切られていた。もう少しで車輪に轢きこまれていたか服を巻き込まれ引きずられていただろう。全く馬車の車輪に引っ掛けられるなどパリに住む者として失格だ。道端の汚い物を避けて通るように馬車くらい避けて歩けなくてはパリの道は歩けない。
 シルビーは上体を起こし息を整えた。彼女の前に膝をつき心配そうに見つめる黒い目の男。フランソワと同じ軍服を着ていた。
 シルビーは彼を知っていた。名前も知らないフランス衛兵の顔を覚えていく。あの雪の日、彼はアランと一緒にいた男ではないか。印象的な黒い髪に見覚えがある。男達から足蹴にされ誰も助けてくれないドニ親父を担ぎ、店の中に入っていったのも彼ではなかったか。アランが彼の名を呼んでいたが思い出せない。アランはあたしの脇をすり抜けて彼らの所へ行ってしまった。なぜ彼のことをこれほど覚えているのだろう。そうだ、あの金髪のせいかもしれない。金髪の隊長を見る時彼はいつも一緒だった。
 ふいに風が吹き彼の髪があおられた。シルビーは息を呑んだ。彼の左目は開いていなかった。顔の左側を覆うような長い髪にはそういう訳があったのか。彼女は思わず目を伏せた。
 彼はシルビーが立てるようになるまで道に佇んでくれるつもりなのか、彼女を急き立てる様子もなく膝をつきそこにいた。彼女は片足の男を思い出した。彼は足を失ってから人生が暗転したらしい。不幸が不幸を呼ぶこともあるのか。彼の嘆きはわかるが自虐ともいえる暗さに時々やりきれなくなる事がある。
 シルビーは黙って彼女の回復を待つ目の前の男を見つめた。彼だって片目を失っている。一体何だってこんな大怪我を…。片目で軍隊勤めなど大変な事だろう。だが彼からは陰惨さは無論、暗さの欠けらも感じられなかった。残った彼の目は優しそうだった。シルビーは彼の中に穏やかではあるが固い信念のようなものを感じた。どんな不幸が襲ってもきっと何者も彼を不幸にすることは出来ない。教会でいつも唱える神の言葉。愛し、慈しみ、全てを赦す大いなる愛。自分を襲う不幸さえ愛を生み出す糧にしていく。彼と向かい合っているとそんな奇跡を信じたくなった。
 彼の名は何といったか…。アランかフランソワに聞けば分かるのだろうが…。
(フランス衛兵はどいつもこいつも誇り高い)
 こんな時にラウルの言葉を思い出すなんて…。シルビーは可笑しくなった。
「大丈夫か?」
 彼女の頬に浮かぶ笑みに気づいたのか彼が聞いた。シルビーは頷くと立ち上がろうとした。したたかに打ち付けた腰が痛くてたまらない。
「無理するな」
 彼が助けてくれる。だが彼女は自分で道の端によけた。
「家はどこだ? 送ろう」
 彼の言葉にシルビーは首を横に振った。何とか立ち上がったが新たな痛みで声がでない。もう少しここで休んでいきたい。彼女はもう一度首を横に振った。彼はそれを拒絶とみたのか、ポケットから布を取り出し血の出たシルビーの腕に巻きつけ縛るとその場を去っていった。



 控えめなノックの音だった。
「誰?」
 シルビーに小さな声が応えた。
「フランソワだよ」
 彼女は戸を開けた。
「もう、来ないかと思っていたわ」
「なぜ?」
 フランソワは部屋の外に佇んだまま言った。
「今夜は約束した日だよ」
「そうだけど‥」
 シルビーは彼を招き入れた。
「シルビー、俺の事、不甲斐ないと思っているだろう」
 彼は固い表情で部屋の中に立ち尽くした。
「俺だって自分の力の無さが嫌になるよ。シルビーにいつまでもこんな事させておくつもりはないのに‥ 仕事が欲しい! 今の仕事じゃ足りないよ!」
 彼は悲痛な面持ちで絞り出すように言った。
「フランソワ、あなたにはやるべき仕事があるわ。あなたの全てを傾けるに足る仕事があるでしょう」
 シルビーは彼の前にまわると彼を椅子に座らせた。
「国を守る事が愛する者を守ると信じてた‥ でもそれでは遅いんだ!」
 彼はテーブルに肘をつき両手で顔を覆った。
「男は好きな女の為なら何だってできる。命を投げ出したってかまわないのに…」
「まあ、勇ましいのね」
 軽口をきくようなシルビーの物言いにフランソワは顔を上げ彼女を見たがいきり立つような子供っぽさは見られなかった。
「最初に誓ったのはミシェルにだった。あいつの為なら何だってしてやろう。命も惜しくない」
「わかるわ」
 彼女は彼の側に立ち優しく頷いた
「シルビー、笑うけれど多分男は皆そうだよ、男は愛する女の為なら命を投げ出すよ」
「そう、フランソワ、あたしの為に死ねるの?」
 彼女の微笑みに彼は立ち上がった。
「死ねるよ!」
「わかったわ」
 フランソワのひた向きさが恐いと思う時がある。
「シルビー、本気にしていないね」
 彼は彼女を見おろした。
「あなたの気持ちは嬉しいわ。でも、フランソワ、あたしの為に死ぬなんて言わなくていいからこの軍服に穴を開けたりしないと誓ってちょうだい。あたしはこの軍服が気に入っているのだから」
 シルビーはフランソワの肩口に指を置いた。


 シルビーの体にある青あざを見たフランソワの顔色が変わった。
「シルビー! 誰がこんなにしたんだ!」
 いつもと違う彼の声に彼女は驚き急いで言った。
「転んだのよ」
 彼はシルビーに背中を向けさせ服を脱がせると体中を調べた。彼は蒼白だった。
「違う!」
 彼の動転した声と様子にシルビーは彼に向き直り彼の腕をつかんで揺すった。
「転んだのよ、馬車の車輪に引っ掛けられたの。本当よ」
「嘘だ! 誰がやったんだ、シルビー、ちゃんと言うんだ!」
 フランソワはこれ以上ない剣幕で彼女に言った。シルビーは急いでクローゼットの中から破れたドレスを取り出した。彼は誰かの名前を聞こうものならすぐにでも部屋を飛び出していきそうな勢いだった。
「見て、こんなに泥だらけになってしまって。ここに引っ掛けたのよ。もう着れないわ」
 シルビーはそれをフランソワの目の前に広げ彼の怒りを静めようとした。彼は破れたドレスを眺めていたがまだ震えていた。
「そうだわ、彼がいた。助けてくれたの。フランス衛兵だった。片目の隊員がいるでしょう」
 彼女はもう一つの事柄を思い出した。
「アンドレが‥?」
 フランソワは顔を上げシルビーを見た。
「アンドレっていうの?」
 彼女はドレスと一緒にしてあった一枚の布を見せた。
「これを巻いてくれたわ。ほら、ここに」
 彼女はかさぶたになった肘を見せた。フランソワはそれを手に取った。Aのイニシャルにうっすらととした染みの残る白いハンカチだった。
「どうしても血の跡が落ちなかった」
 彼女はハンカチを手に取り小さくたたんだ。フランソワの顔から彼を痛めつけていた怒気がようやく去った。
「シルビー、本当に転んだの? 誰かにやられたんじゃないんだね」
 フランソワはシルビーの体のあざを優しく撫でた。彼の目には涙が溜まっていた。


 フランソワの唇が肩に触れる。肩から首にそして胸に…。彼は壊れ物を扱うようにそっと彼女を扱った。彼女の体のあちこちにあった青あざのせいだった。あなたに抱かれるくらい何でもないわ。お願い抱いてちょうだい。彼女から懇願して躊躇う彼をベッドに誘った。
 熱いものはなかった。激しさもなかった。優しさに包まれ、たゆたうような感覚。静かに体を重ね暖かさだけを感じる。ゆっくりとした彼の動き。
 これほど大切に扱われた事があっただろうか…。愛することと、愛されること…。
 あたしが何でも教えてあげる。最初にフランソワにそう言った。男達と数限りない性の饗宴を繰り広げてきた。男女の性の営みで知らない事など無いと思っていた。だが何も知らなかったのは自分の方だった。私は何一つ知らなかった!
 シルビーは心の奥から震えがくるのを感じた。フランソワを誰にも渡したくない! 彼はあたしだけのもの、誰にも渡さない! シルビーはフランソワにつかまり叫び声を上げた。彼が身を起こし彼女の様子を気にした。
「痛い?」
 シルビーは首を横に振った。涙が出てきた。
「ごめん、無理した?」
 彼はシルビーから体を離し彼女を抱き起こした。彼の胸に抱かれ彼女は泣いた。次々と涙が出てきた。あたしは何も知らなかった。何もかも知ってるつもりで何も知らなかった。全部彼に教えてもらった。
「どうしたの? なぜ泣くのさ?」
 フランソワは突然泣き出したシルビーに驚き、困り果てたように彼女の髪を撫でた。
「シルビー、母さんを、家を思い出したの? エミールに会いたいの?」
 フランソワの手を頭に感じシルビーは彼の胸につかまって泣いた。苦い後悔が彼女を襲った。あたしはこんなに汚れてしまった。汚れきってしまった。一緒に暮らそうというあなたの申し出を素直に受けられる自分でいたかった…。
 フランソワは何も言わずシルビーを抱き髪を撫でた。時々彼女の様子を見ながら子供にするようにいつまでもいつまでも彼女の嗚咽がおさまるまでそうしていた。



 フランソワの差し出した花を見てシルビーは声を上げた。
「すずらんだわ! すずらんが咲いているの?」
「そうさ、もう五月だよ」
 フランソワは青々とした葉にうつむいたような茎をつけたすずらんを手渡した。彼女は嬉しそうに微笑み白い可憐な花に顔を近づけた。
「シルビー、すずらん好き?」
 フランソワが明るい声で聞く。
「ええ、もちろんよ」
 彼女は花の香りを楽しんで答えた。
「じゃあ、今度もっと取ってくる。ヴェルサイユへ行く途中の森にいくらでも咲いているんだ」
「そうなの」
 シルビーは花から顔を上げた。彼の心が嬉しかった。
「今日はヴェルサイユに行ってきた。もうすぐ三部会だよ」
 フランソワの声は今度は少し沈んで聞こえた。三部会の開催は恋人達のしばしの別れを意味していた。
「シルビー、開会式は見に来る? フランス衛兵が議員達の列を護るよ」
 彼の声は落ち着き誇りに満ちていた。シルビーは一束のすずらんをフランソワの胸に挿した。
「必ず行くわ」
「今夜は夜勤だ。明日がパリ最後の夜になると思う。明日、来てもいい?」
 つま先立って彼の唇にキスをし彼女は言った。 
「待っているわ」


 フランソワはテーブルの上で雑嚢を逆さにした。中からは沢山のすずらんがテーブルの上にこぼれ出てきた。
「こんなに沢山」
 シルビーは声を上げて笑った。テーブルの上は折り重なったすずらんで山になった。
「飾りきれないわ」
 彼女は笑いながら部屋中からグラスや水差しを集めてきた。
「心配したのよ。今日は来ないのじゃないかと思ったわ」
 今夜フランソワは来るのが遅かった。三部会警護の準備があるのだろう。だが少しでも顔を見られれば良かった。彼女は水を入れたグラスに花を活けていった。部屋は花の香りで満たされた。
「うん、点呼を済ませてきた。今日はここに泊まっていい?」
 フランソワの言葉にシルビーは花を活ける手を止めた。
「なんでっすって? フランソワ、そんなことして衛兵隊クビになったらどうするの?」
「大丈夫さ、仲間がうまくやってくれる」
 彼は言いながらすずらんをグラスに差し入れるのを手伝った。小さな白い花は一つ残らず活けられた。テーブルの上は森になった。



 ふとした気配に目が覚めた。まだ朝ではない。部屋は暗かった。シルビーが目を開けると眠っているものだと思っていたフランソワと目が合った。彼は驚いたように目を見張ったが、やがて静かに微笑んだ。
 パリ最後の夜、すずらんの香りが溢れる部屋の中、恋人達は何度も愛し合いベッドの上で折り重なるようにして眠った。今夜を最後に明日か明後日にはフランソワ達はパリを発ちヴェルサイユに移動する。そして三部会の開会式は挙行される。しばらく彼には会えなくなる。でも仕方がない。彼を待とう。幸せを待つ。シルビーにとっての初めての経験はひどく心許なかった。
 フランソワは彼女の方を向いて横になり、肘をついた手に頭を乗せていた。彼の背にある窓から彼の痩せた肩越しに月が見えた。不思議な光景だった。見た事も無いような銀色の月だった。それは明るいのに寂しそうな光を放ち、ひっそりと空にかかっていた。銀の月からは銀の光が届き、それがフランソワの髪を銀色に見せていた。部屋は青暗く闇に覆われているのに彼の輪郭だけは明るく浮き上がっていた。
「シルビー、綺麗だ、ずっと見ていた」
 彼はそのままの姿勢で彼女に言った。
「今夜は月が明るい。眠ってしまうのが惜しいよ。この月がシルビーを見せてくれる間はこうしていたい」
 シルビーは胸元の上掛けを抱き寄せ微笑んだ。窓が空を切り取り額のように見えた。暗い夜空に浮かぶ銀の月と最愛の人。心に刻まれる一瞬。目覚めさせてくれたのは誰?
「いつかシルビーを俺だけのものにする」
 フランソワの肩先で月が揺れたように見えた。
「ねえ、フランソワ、約束して。いつかあたしにドレスを買ってちょうだい。この髪に合う素敵な色のドレスを…」
 シルビーはシーツの上に流れる自分の髪を撫で付けた。本当は何もいらない。でも月の滴に照らされるあなたがとても綺麗で、はかなくてどこかに行ってしまいそうだから約束で縛りつけたくなる…。
「約束する」
 フランソワは言って手を差し出した。シルビーは彼の手を取った。暖かい手。彼が力を入れて握りしめてくる。確かな手応え。待っている、待っているわ、フランソワ。きっとまたあなたは花を手に、ここを訪ねてくれる。優しいフランソワ。私の大事なフランソワ。



Fin




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