2003 6/24

銀の月と小さな花 W




 シルビーは母に手紙を出した。母からの手紙には送金をありがたく思っていると何度も綴ってあった。エミールが学校で首席をとったとも書いてあった。彼の未来についての母の記述は希望に溢れていた。エミールがもう少し働けるようになったら帰って来るようにとあった。お前もお針子としては一人前だろうからこちらで仕立ての仕事でもしたらどうか。
 彼女は幾分多めに金を送り帰りにいくらかのパンを買った。貴族の金づるをつかんでいると生活が楽だった。片足の男は裕福とはいえないのだろうがそれでも庶民とは金の桁が違っていた。彼は一人だったし世を捨てたような男で金のかかる趣味も無かった。生活自体も質素だった。あえて言えば赤毛の女に入れ揚げることくらいか。
 彼から金を引き出そうと思えばもっと出来ただろう。だがシルビーはそれをしなかった。彼から身ぐるみ剥ぐのは気が引けたし彼の執着も怖かった。客とはつかず離れず適当な距離を持つ事が大切だ。それが相手から飽きられないようにし、かつ命を守るコツかもしれない。片足の男からは生活に困らないだけの物をもらえればいい。家に送金できているし蓄えもしている。今は彼が可哀相な爺さんのように死んでしまわない事を祈るだけだ。
 彼は最初こそシルビーの体を求め、長い事閉じ込められていた欲求が噴出するように肉の快楽をむさぼりもしたがやがてそれも落ち着いていった。陰惨だった部屋も明るくなった。窓が開いたのだ。長い間締め切られ淀みきった空気に日の匂いが混じるようになった。
 シルビーは毎週決まった日の決まった時間に彼のところへ行った。彼はいつもシルビーを抱くわけではなく、彼女を傍らに座らせ話をするでもなく黙りこくっていることもあった。さもなければメイドに言いつけて菓子や茶を運ばせシルビーに薦める。彼女がそれを食べるのを満足そうに眺めていた。
 彼の家で出されるとろけるような菓子はシルビーの心を辛くした。それらが美味であればあるほど一人でそれを食べる罪悪感で涙が出た。できればこのままエミールに持って帰ってあげたい。彼は一度もこんな物を食べた事がないだろう。フランソワにでもいい。彼も毎日国の為に働きながらきっとこんな物は食べてはいない。
『どうした、美味くないか?』
 男の言葉にシルビーはフォークを取り直す。
 彼に請われて本を読んだりもした。読み方が気に入らないのかいくつか替えられたりもしたが詩集や物語の本に落ち着いていった。シルビーの朗読を聞きながら彼は眠ってしまう事もあった。


 シルビーはパンをしっかり脇に抱え通りの人波を縫うように歩いた。通りはいつも人でごった返している。今日も一人の男が台の上に立ち何か叫んでいる。シルビーは人波に阻まれ通り過ぎる事もできず立ち止まった。見るともなしに彼の方を見る。彼の賛同者だろうか、台の上に三人も四人もの男が次々乗り上げ同じように声を張り上げた。どうやら候補者の一人の善行を言いたてているようだ。彼がいかに権力と戦い貧しい者の為に力を注いでいるか。彼の細かい功績を彼らは説明していた。
「シルビー、集会を聞きに来たのか?」
 声に振り向くと見慣れた軍服が立っていた。アランだった。
「アラン」
 シルビーは驚いて彼を見つめた。アランは銃を肩に掛け彼女を見ていた。見おろす彼の瞳は優しげで顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。
 何度も彼を見ているのに懐かしさに胸が締め付けられるような気がするのはなぜだろう。シルビーはどんな人込みの中でもその中にアランがいれば瞬時に彼を見つけ出す事が出来た。窓の下を何度も彼は通った。彼を見かけることはあっても彼が窓を振り仰ぐ事はなかった。
 アランは台の上に立つ男達を見遣り独り言のように言った。
「選挙を待ち望む市民達はもう我慢できない。パリの選挙が遅れているのはどこかの誰かの陰謀だと言う者もいる。噂を信じ疑心暗鬼にかられた彼らはどんなきっかけで爆発するかわからない」
 アランは銃を肩に掛け直し男達のさらに向こうにあるものを眺めるような眼差しをした。シルビーは彼の横顔を見つめた。この男は会うたびに違う顔を見せる。
 最初に会った寒い夜。白い雪の舞い散る細い道。突然フランソワを連れて彼は戸を叩いた。でもきっとそんな事は忘れているに違いない。シルビーは遠くを見つめるアランの横顔からゆっくり視線を外した。
「パリは一触即発だ」
 視線を反らしても彼の気配は濃く、声は耳に届く。
 彼を見るたび戻っていくのはあの夜の風景。何度も見る夢のようにあの時のアランが目に焼きついて離れない。彼の顔に重なる黄金の髪。辛そうで寂しそうに見えた彼が輝くような笑顔を見せた。
 シルビーはもう一度彼を見た。彼は心の奥の深い所に何かを隠している。彼の精悍な顔に垣間見える憂いが気になって仕方がない。彼は遠くを見ている。彼の視線の先にあるもの、それが知りたい。心に何か強い想いを抱えた男は直ぐわかる。心の奥に納めたように見えても男は単純だからそれが透けて見えるのだ。
 何だろう…。シルビーは密かに瞳を巡らせた。彼が抱いているものは確かにあるのにそれが何だか分からない。怒りや憎しみなどが力としては一番強い。でもきっと違う。それでは一体何? 悲しみだろうか、それとも信念…。或いは恋慕…。そこまで考えシルビーは息をのんだ。
(誰かに恋人とられちまったような…)
(片恋だね)
(何か気になるの? 恋人はいないはず…)
 自分の言葉がよみがえる。知っていたんだ、あたし… 彼の中に誰かいる事、知っていたじゃないか…。
「いつ暴動になってもおかしくない」
 彼の言葉にシルビーはここがどこだか思い出した。
「アラン」
 彼女はアランの腕に手を置いた。彼の瞳が彼女を見た。この瞳が求めて離さないものがある。シルビーは彼の腕に置いた手に力を込めた。彼に‥何を言おうとするのか… 息だけで言葉にならない。彼の瞳が彼女の言葉を待った。パリの喧騒が彼女を押し出した。
「気をつけて、アラン、最近の市民は武器を持っているわ。軍隊を憎んでいる者もいる」
 置いた手をそのままにシルビーはアランを見上げた。アランはシルビーを見て軽く微笑んだ。シルビーは彼の中にまた新しい顔を見たような気がした。鋭い光を宿していると思っていた彼の瞳に優しげで穏やかな光が見えた。だがどうしてもそこに微かな悲しみが見えるような気がしてならなかった。
「大丈夫だ、気をつける。ありがとうシルビー」
 彼は彼女の肩に手を置くと頷いた。



「シルビー、今日アランと話していたね」
 夕刻フランソワがやってきてテーブルの上に邪険に銃を置いた。
「ずっと見ていたよ」
 彼は回り込んできてシルビーの前に立った。怒っているのか機嫌が悪そうだ。
「何を話していたの?」
 彼はシルビーを問い詰めた。彼の目は明るい瞳に似合わぬ険悪な色を浮かべていた。
「何って‥何も‥」
 シルビーはフランソワの不機嫌の意味がわからず肩をすくめた。彼が来る時刻にしては随分早い。彼は今日の任務が終ったその足でここに来たようだ。
「嘘だ!」
 フランソワは鋭く言った。
「話はしたけれどそれだけよ」
 シルビーは彼の怒りに戸惑った。何をそんなに怒っているのだろう。
「アランも‥ ここに来ているの?」
 フランソワの声は冷静さを装っていたが顔はうっすら赤らんでいた。シルビーは彼の気持ちが分かったような気がして微笑んだ。
「いいえ、アランはここには来ないわ」
「本当に?」
 フランソワは疑い深そうな瞳で聞いてくる。
「本当よ、信用できない?」
 シルビーは彼をなだめるように言いながら全身の皮膚を駆け巡るような甘やかな疼きを感じた。フランソワは嫉妬しているのかもしれない。
「そんな事はないけど‥」
 シルビーを厳しく問い詰めていた彼は後悔したように下を向いた。
「でも‥ アランとも寝たんだろう」
 彼はシルビーを見ずに言った。シルビーは腕を伸ばし彼の顎に手をかけた。何て彼は可愛いのだろう。
「いいえ」
 シルビーは彼の顔を自分の方に向けると、ゆっくりと言い聞かせるように首を横に振った。
「じゃあ、何でアランと‥ 一体どこで‥」
 言いかけるフランソワにシルビーは言った。
「酒場でしょんぼりと酒を飲んでいるアランがあまりに可哀相で声をかけたんだよ。どうしたの?って」
 シルビーは誰かに声をかけるかのように感情を込め最後の言葉を言った。
「それから‥?」
「それだけさ」
「いつ?」
「あれはね」
 シルビーは思い出すようにしばらく間を置きキッパリと言った。
「去年の12月8日だよ。私の誕生日だもの、間違いない」
「12月8日…」
 今度はフランソワが何か考えているようだった。
「それで、アランとは本当に何もなかったの?」
 彼は念を押しながらも数えるように何かを考えていた。
「ないよ。私は濡れて泥だらけになった犬のような男を放っておけないんだよ」
 彼女の物言いにフランソワは聞き返した。
「アランが?」
「そうさ」
 彼は下を向きまだ何かを考えていた。彼は苦しそうに見えた。
「どうしたの? フランソワ」
「何でもない」
 フランソワは顔を上げた。彼の顔には怒りも不審も見当たらなかった。
「でも」
 フランソワはシルビーの腕をつかんだ。
「もしアランが何か言ってきても絶対に!絶対にダメだからね!」
 シルビーは笑った。
「大丈夫よ。でもなぜそうアランを気にするの?」
「気にしてなんかいないよ」
 フランソワはまた怒ったようだ。
「アランの姓は何ていうの? あたしそれも知らないのよ」
 シルビーはフランソワの表情に気をつけながら聞いた。
「アラン・ド・ソワソンだよ」
「アランは貴族なの?」
 シルビーは驚いて声を上げた。フランソワは苦しそうに首を横に振った。
「貴族っていってもアランの家は俺達と変わらないくらいひどいんだ。シルビー、知っている? 貴族にも色々あるんだよ」
 彼は先から時々見せる悲しそうな苦しそうな表情をした。
「知っているよ。貴族も色々さ。平民だって貴族に負けない位金持ちもいる。何もかも持っている者と何も持っていない者の差がありすぎるよ」
 シルビーも声を落とした。アランの横顔が目の前をよぎった。

 階段を降りていくフランソワの足音が聞こえる。来る時は聞こえないのになぜ帰る時はこんなに響くのだろう。足音が途切れるとシルビーは窓にまわり通りを見おろした。彼が手を振る。雲間から差し込む夕日が道を照らしている。フランソワは何度も振り返りながら道の端に姿を消した。

 フランソワ、あなたが心配するような事は何もない。
 フランソワ、あたしはあなたにも執着しない。娼婦が恋をしたら辛くなる事くらい知っている。
 フランソワ、あなたには一点の汚れも無い無垢な少女が似合っている。彼女は雪のように清らかで、ひなぎくのように可憐なの。陽だまりのように暖かくて、心からあなたを愛している。そんな少女があなたにはお似合い。
 フランソワ、そんな少女が現れたらあたしはすぐに身を引くわ。だからそれまで、少しの間だけ、わたしの側にいてちょうだい。

 彼女は窓辺に立ちゆっくり暮れていく道の端をいつまでも見つめていた。



 シルビーは酒場で相手を待った。遅れてきた相手はだらしなく軍服の前を開け、どこかで酒でも飲んできたのか赤い顔をして彼女に気づくと口の端を歪めて笑った。シルビーは男の前に立ち店の戸口に向かった。
「場所は?」
「シルビー、そんなにせかせかするなよ。ゆっくり飲もうや」
 男はシルビーの肩をつかんだ。
「悪いけど今夜は立て込んでいるんだよ。酒はまたこの次」
 彼女は体を捻って男の手から逃れた。
「俺達の宿舎に来いよ」
 男は酒臭い息を吐き出しながら言った。
「あたしはあんた達の餌食になりにそんな所に行くほど馬鹿じゃないよ。ちゃんとした場所が用意出来ないのならこっちで用意するけど」
「シルビー、なにもあんな高い宿の部屋を取ることないだろう。どんな部屋だってやる事は同じなんだから」
 男は下卑た笑い顔をシルビーに近づけた。
「嫌ならやめてもいいんだよ」
 肩に巻いたショールの前をかき合わせシルビーは横目で男を見た。
「ふん、まるで高級娼婦気取りだな」
 男はふらつくようにシルビーの肩に寄りかかった。


 部屋に入ると男は乱暴にシルビーの胸を押した。弾みで彼女は寝台の上に倒れこんだ。客だから文句は言えないが弱い者いじめの好きなこいつはどうしても好きになれない。ラウル・ブラン。がらの悪い竜騎兵の一団の一人だ。あんた達が弱い者を脅して金を巻き上げたり憂さ晴らし代わりに難癖つけて殴ったりしている事知っているんだから。シルビーは男を睨みつけた。
「シルビーお前は相変らず気が強い」
 ラウルは嬉しそうに笑うとシルビーの肩をベットに押さえつけて衣服を剥ぎ取った。
「気の強い女が俺は好きだ」
 男は下品な笑いを浮かべながらシルビーを裸にしていった。
「シルビー」
 彼女を半裸にし男は彼女の胸から首に手を移し顔を寄せてきた。
「お前、いい男が出来たんだってな。お前の部屋に入っていくフランス衛兵の軍服を何人ものやつが見ているんだよ」
 ラウルはシルビーの表情を楽しむようにさらに顔を寄せた。彼はシルビーの首を締め上げるように徐々に手を上に這わせていった。シルビーはその力に逆らわず首を上に向けた。
「さあ、言うんだシルビー、その色男の名前を」
 上を向いた彼女の目の前に一枚の札が差し出された。フランソワが見られている。彼らの事だ何をやろうとしているかくらい検討がつく。
「言うんだ、シルビー」
 ラウルは握った札をヒラヒラ振ってみせた。とぼけたって否定したって無駄だろう。
「アランよ」
 シルビーは札をひったくった。
「姓は?」
「ド・ソワソン」
「貴族か?」
「そうよ」
 男は大声で笑った。
「パリの娼婦が貴族の兵隊と良い仲か! はっはっは、笑っちまう。大方どこかの貧乏貴族の次男坊だろうがよ!」
 男は先とは比べ物にならない力でシルビーを押し倒した。
「シルビー、どうだ、アランに助けてもらいたいか」
 男はシルビーの衣服をすっかり剥ぎ取ると彼女をうつ伏せに押さえつけのしかかってきた。シルビーは頬を寝台に押し付け部屋の壁を見た。ラウルの顔を見なくて済む分楽ってものだ。
「シルビー、叫んでみろ、愛しい男に助けを求めてみやがれ」
 男はシルビーを押さえつけ陵辱した。男の息が上がってくるのがわかる。彼の好きそうな事をしてやろうじゃないか。シルビーは爪を立てシーツを掴んだ。
「助けて! アラン、助けてよー!」
 シルビーは大声で叫んだ。男の動きが速くなってくる。ひどく興奮しているようだ。
「アラン! アラン! 助けて、アラン!」
 シルビーは声を限りに叫んだ。叫べば叫ぶほど男は喜ぶようだ。卑怯で下品な男の気に入りそうな事だ。
「アラン! アラン! アラン!」
 シルビーは叫んだ。何度も何度も‥。普段口に出す事もない名前。叫ぶ自分の声がこだまする。その声を耳にしながら彼の名を呼んだ。


「シルビー、そんなに急いで服を着ることないだろう」
 男はベットにもたれたまま腕を伸ばし服を着ようとするシルビーの肩を無理やり抱いた。
「俺はフランス衛兵が嫌いだ。どいつもこいつも誇り高く超然としやがって、一体どうなっているんだ」
 吐き出すように言うラウルを思わずシルビーは見た。
「何が可笑しい」
 男は抱き寄せようとしたシルビーの顔に言った。
「別に、何も‥」
 シルビーは顔を見られないよう乱れる髪もそのままに男の胸に顔を伏せた。
 フランス衛兵はどいつもこいつも誇り高いのかい。もしそうならその理由なんて一生かかっても多分お前にはわからないだろうよ。シルビーは男に顔を見られないように男の胸に頭を擦りつけた。
「あたし‥ 何だかアランよりあんたの方が気に入っちまった‥」
 男の笑う声が聞こえた。シルビーは顔を上げた。間の抜けた下品な顔を緩ませて男は笑っていた。シルビーも同じように男を見ながら笑った。嫌な奴に抱かれながら違う男に抱かれているように自己暗示がかけられなければこの仕事はやっていけないんだよ。あたしは女優にでもなった気分さ。シルビーは出来るだけふしだらに笑ってみせた。男は服のポケットを探ると折りたたんだ札を差し出した。シルビーは笑いながらそれを受け取った。多分これで今日は最後だろう。もうこれ以上金は出てこない。シルビーは立ち上がり服を着ると男に言った。
「じゃあ、さようなら。宿代は払っておいてね」




 フランソワが眠っている。疲れているのだろうか、寝台の柵に頭を持たせかけ眠っていた。シルビーは裸の上にガウンを羽織ると椅子に座り彼を眺めた。フランソワは柵に寄りかかり頭を反らせている。柔らかい髪が柵の外に落ちている。シルビーは彼の横顔から一本の線を辿るように視線を移していった。反り返った顎から伸びやかな喉の線を辿る。胸につながる線はゆっくり呼吸と共に上下し腹にかけ急速に落ちていった。
 この体を、そこに宿る命を、抱きしめるのも今のうちだけ。あなたはあなたにふさわしい少女と出会いこんな女がいた事など忘れていく。それでいい。
 シルビーは椅子に座ったままフランソワを見つめた。
「あ、俺、寝てた?」
 突然フランソワは目を開け部屋を見渡した。
「少しの間だから大丈夫よ」
 シルビーはフランソワに言った。
「俺、行かなきゃ」
 フランソワは部屋に散らばる服に手を伸ばした。彼はあまりにも無防備で真っ直ぐすぎる。明るい瞳。明るい髪。日なたの匂いのするあなたの肌。
 シルビーはガウンを羽織ったままフランソワの体の上に乗った。彼の顔に手をやり両頬を挟み口付ける。柔らかく唇を動かし彼の口づけを誘う。
 フランソワ、私はあなたの最初の女。あなたを誰かに渡す前に私はあなたの体に忘れられない刻印を刻んでおく。忘れないで、私のこと忘れないで…。
「やめろ、シルビー、遅れる」
 フランソワはシルビーの肩を押した。
「フランソワ、愛しているわ」
 シルビーはなおも口づけた。
「シルビー、変だよ、今日は変だ」
 シルビーから唇を離しフランソワは彼女を見た。シルビーはフランソワの胸から腹に手をやった。さらに下に手を伸ばし彼の様子を確かめる。
「やめろ、シルビー」
 フランソワは彼女の下から逃れようとしたが彼の体はシルビーの手の中で難なく反応した。
「だめだ、シルビー、俺行かなきゃ」
 フランソワは抵抗したが彼女はさらに彼の口を塞いだ。
「ねえ、フランソワ、もう一度、もう一度だけ‥」
 フランソワは観念したように体の力を抜いた。シルビーの手の中の彼はもう引き返せないところまできていた。
 彼の上に乗り、彼をすっかり体の中に収めシルビーは感じた事のない感慨に震えた。これが愛するという感情なのだろうか。これが愛しいという気持ちなのだろうか。

 ――あなたの中に忘れられない刻印を刻んでおく。私はあなたの初めての女…

 呪文のように繰り返しフランソワの熱さをのみ込んでいく。彼は先と同じように頭を柵に置きシルビーに体を預けた。どうやったらあなたの心の中に住み続けられる? 彼の表情を眺めながら自分自身も昇りつめてゆく。フランソワ、あなたに抱かれると自分が浄化されていくのがわかる。もっと抱いて、私を抱いて…



 道でアランに会った。
「シルビー」
 彼は彼女に気づくと近寄ってきた。
「下品そうな竜騎兵の野郎が俺に声をかけてきた。アラン・ド・ソワソンはお前か? シルビーを知ってるな?」
 彼は静かに問いかけてきた。落ち着いた優しい声だった。
「どういう、ことだ?」
 彼はシルビーの顔を覗き込んだ。だが彼の顔には何かを追求するような素振りは見られなかった。
「それで?」
 シルビーは素っ気無くアランに聞き返した。
「それだけさ。嫌な笑いを浮かべて行っちまった」
 アランは不快を払うように鼻で笑いながらも目はシルビーの様子を見つめていた。
「何でもないさ」
 シルビーはアランに背を向けた。二三歩、歩を踏み出し彼女は彼の方に向き直った。
「アラン、あなたはね、私の恋人ってことになっているんだよ」
 ラウルの得意そうな顔が浮かんだ。あいつがどんな目でアランを見下したかわかり心が痛んだ。アランに罵倒され蔑まれれば少しは気が楽だろうか‥。
「何だって?」
 アランの黒い目に何か光ったがそれは一瞬で彼は興味深い楽しい話でもするかのようにシルビーに顔を寄せた。
「すると俺はあいつを二、三発殴っておいた方が良かったのか?」
 シルビーは下を向いた。
「必要ないよ」
 小さな声でそれだけ言った。
「シルビー、俺にだって殴りたいやつはいる。俺にやらせろ。俺が代わりに殴ってやる」
 シルビーは顔を上げて彼を見た。彼は兄の顔をしていた。弟を想う兄の顔は分かる。彼はそんな表情をしていた。
「殴る価値もない男だよ」
 シルビーは今度こそアランに背を向けた。
「シルビー」
 アランがもう一度声をかけた。彼はシルビーの肩に手をかけ彼女を振り向かせた。振り向いた先にあった彼の目は真剣だった。
「シルビー、何かあったら言ってこいよ。用心棒の真似事くらいなら出来るかもしれない」
 シルビーは頷いた。アランの腕から逃れるように彼女は歩を進めた。

 ありがとう、アラン。でも大丈夫よ。私は一人で生きていく。生きていけるわ。私はパリが好きなの。こんな街でも好きなのよ。

 風がシルビーの髪を撫でた。彼女は振り返らないように気をつけた。



銀の月と小さな花 X に続く




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