2006 7/8

夏至祭



登場人物

ヴィクトール フェルディナン(ヴィクトールの兄) マルグリッド(母) 
アルフォンス(父) イレーヌ(大伯母) エドワール(イレーヌの息子)

「五月の薔薇」 「移り香」 に関連した記述があります。



 重なった葉をどかすと虫の死骸があった。回りに小さな蟻が集まっている。蟻たちは大きな塊を持ち上げるようにして運んでいく。一体どこに‥ フェルディナンは虫が進む方向の葉をどかした。どこから集まってくるのか、蟻の数は増え列は長くなる。死骸は高々と掲げられ、運ばれていく。フェルディナンは手に持った石を列の行手を塞ぐように置いてみた。蟻達は戸惑ったように虫を落としたが、やがて石を回り込みまた進み出す。
「フェルディナン、何を見ているの?」
 上からの声に彼は顔を上げた。初夏の陽光のきらめきの中に美しい婦人の顔が見えた。彼女は屈み込み彼に話しかけた。
「フェルディナンでしょう? まあ、大きくなって! マルグリッドはどこ? あなたの弟に会いにきたのよ。案内してちょうだい」
 フェルディナンは立ち上がり、親しそうに話しかける婦人を見た。この人は誰? 大きな日除け用の帽子を被り、軽やかなドレスを着て微笑んでいる。
「覚えていない? イレーヌよ。雪の日に遊んだでしょう?」
 優しげな微笑みは降り注ぐ。
 雪の日‥ 彼の頭に真っ白な雪の原が映った。あの日一緒にそり遊びをしてくれた人がいた。後からしっかり抱きしめる腕。頬を切る冷たい風。今まで味わったことのないほど危険で心躍る体験だった。その人が誰だったかはすっかり忘れたが、今目の前にいる人がそうならすぐにでも友達になりたかった。
 マルグリッドはどこ? 彼女はそう言った。母の友人に違いない。彼の心は子供らしい期待と興奮に包まれた。
「どうぞこちらへ」
 フェルディナンは紳士らしく婦人の手を取った。女の人と向き合うといつも晴れやかで得意な気分になった。だが彼の高揚は一瞬で打ちくだかれた。
「母さまに触るな!」
 強い力で押されたと思ったら、地面に転んでいた。顔を上げると、褐色の瞳が見下ろしてした。茶色の髪をした少年。
「エドワール、何をするの! あなたの従兄弟のフェルディナンよ。仲良くして。フェルディナン、大丈夫?」
 驚いた声で言うと婦人は地面に膝をつき、フェルディナンを抱き起こした。優しい手が服についた土を払う。突然の乱暴はフェルディナンをひどく困惑させたが、肩を抱く婦人に応えなければと、彼は微笑んでみせた。婦人は安心したように笑うとフェルディナンの耳に口を寄せ、もう一度言った。
「ヴィクトールに会いたいの。あなたの弟の所に連れていってちょうだい」


 母と客の婦人は弟に夢中だった。
「まあ、なんて可愛いのかしら! ああ、信じられないわ。なんて綺麗な子。抱かせてちょうだい」
 テーブルの上には山盛りの菓子と甘いお茶、そして仏頂面の男の子。母と客は仏頂面を隔てた向こう側の長椅子に座っている。
「ヴィクトール、初めまして。イレーヌよ。まあ、なんて綺麗な‥」
 客人は母から奪い取った弟を膝に抱き有頂天だ。なんて綺麗‥ うわ言のように同じ言葉を繰り返し、弟を見つめる。仏頂面は背後には何の興味もないようで、つまらなそうに菓子を口に運んでいる。
 フェルディナンは正面の顔を見つめた。自分より少し年長の少年。茶色の巻き毛は長く伸び、肩についている。退屈そうに溜息をつきながら窓の方向を見やり首をぐるりと回す。フェルディナンにはそれがひどく大人っぽい仕草に思えた。
 見つめる視線に気がついたかのように少年はフェルディナンを見て悪戯っぽく笑った。
「外に出ないか?」
 フェルディナンは警戒した。先ほど思いっきり地面に突き飛ばされたばかりだった。だが小さな弟に夢中になっている二人の女の側にいるよりは、外に出た方が面白そうではあった。
「母様、フェルディナンと外で遊びたいのですが」
 フェルディナンの返事など待たずに少年は立ち上がると快活そうに女達の側に歩み寄った。その姿は仲のよい友人を得て嬉しさではちきれそうな行儀のよい子供であった。
「あら」
 弟から視線を外した婦人は一瞬意外だというように目を見張ったが、やがて満足そうに頷いた。
「いいわよ。遊んでいらっしゃい」
 フェルディナンは母であるマルグリッドを見た。彼と遊びたい気持ちもあったが、どこか不安もあった。
「良かったわね、フェルディナン。エドワールに遊んでもらいなさい」
 母の優しい微笑みは彼と外で遊ぶように言っていた。


 外に出るしかなかった。殆ど自然をそのまま残した庭は鬱蒼とした森の中にあった。館は作られたばかりで新しい。だが庭はまだ充分な手が入っていない。
 森の館は弟が生まれた祝いに父が母に贈った物だ。そこは高台にあって、遠くに河も見えたし、毎日のように動物が紛れ込んできた。最初は薄暗さに震え、飛び込んでくる動物達を怖いと思ったフェルディナンだが、次第に彼はそこが気に入っていった。ベルサイユの館の整った庭とはまるで違う。毎日新しい発見をした。
 少年は庭に茂る下草を踏みしめながら前を歩く。空には高く鳥の声。そちらに目を向け眩しそうに見上げる客人。年の近い同性と一緒にいる。それはフェルディナンにとって初めてのことだった。
 普段彼の回りにいるのは、母と、新しい乳母と、教育係の女と、世話をする沢山の侍女たち。大人にかしずかれ、遊んでもらう。それが彼の日常だった。たまに姿を見せる父は集まりに彼を伴うことがあったが、そこにも大人しかいなかった。煌びやかに着飾った多くの男と女。彼らはフェルディナンを見ると一斉に寄ってきて、さかんに誉めそやした。香水と白粉の匂い。大人達の談笑の中にいることは彼にとって特別なことではなかった。
 フェルディナンの未熟な世界に同じ年頃の子供はいなかった。だがそれを不自然と思うことは無かった。子供は遠い存在。彼にとってはそれが普通で、それで満足だった。
 しかし、実際目の前に少年がいるとそれは強い興味をフェルディナンにもたらした。何か話しかけたい。だが少年はフェルディナンにはなんの感心もないとでも言うように目を合わせなかった。
 客人は折れた木の枝を拾うと下草を払い出した。勢い良く振り回される枝に葉は千切られ、舞い上がる。話しかける機会が探せない。フェルディナンは何も言えず、彼の後について歩くしかなかった。
 乱暴に草を払いながら少年は前を歩く。丁度、館の裏手にさしかかった時たっだ。少年はふいに足を止めた。
「おい」
 振り向く彼の瞳が笑っていた。フェルディナンの心に静かな興奮が満ちてきた。大人達といる時には到底感じることのできない興奮だった。
「ブランコがある」
 少年の指差す方向に高い木があった。そこには長い二本のロープで吊るされたブランコが風に揺れていた。少年は手にした小枝を離すとブランコの方へ歩み寄った。高い梢を見上げながら、彼はロープの先に結わえ付けてある平たい板の上に足を乗せた。それは太い木を切り出し削り、磨き上げた板だった。腰を降ろすためのものだ。少年はそこに足をかけ、片足で漕ぐようにしてブランコを揺らした。
「女が乗る物だな。お前これに乗って遊んでいるのか?」
 少年は足をかけたままフェルディナンを見て笑った。親しみのこもった笑いではなかった。誰かを小馬鹿にする時に人が良く見せる笑いだった。
 少年はなも片足を乗せたままブランコを揺らしている。彼の靴についた泥が板に落ちた。フェルディナンの心に怒りの火がついた。
 ブランコは母のものだった。母は弟を抱きながら、よくこれに乗った。きらめく木漏れ日を浴びながら、優しく風を受けながら、母は柔らかくそれを揺らした。弟を抱く母。すやすや眠る小さな弟。風にそよぐレースの裾。幸せな光景だった。
 少年は邪険に足を揺らしたまま梢を見上げている。
「その汚い足をそこからどけろ!」
 フェルディナンは頭に上ってくる熱いものに支配されるように言った。


 
「二人ともすぐ友達になれたみたいね。良かったわ、マルグリッド」
 ヴィクトールを抱いたままイレーヌはマルグリッドに微笑んだ。
「ええ、イレーヌさま。エドワールはいい子だし、きっと良く遊んでくれるでしょう」
 少年達の出て行った扉を見つめ、二人の女は顔を見合わせ笑った。
「そうね、良い子よ。でもあの子ちょっと気難しいし、変わっているから心配していたの。外で遊ぶより本を読んだり空想するのが好きな子で… 旅などさせたのがいけなかったかしら。でもフェルディナンとなら大丈夫そうね。外で遊びたいですって!」
 イレーヌは安堵したように小さな息を漏らし、ヴィクトールの顔を覗き込んだ。
「子供は本当に生きる力を与えてくれるわ。ねえ、マルグリッド、ヴィクトールのこの瞳をどう思って?」
「どうって‥」
 戸惑ったようなマルグリッドにイレーヌは言った。
「ジェローデル家の瞳よ。不思議よね、この瞳はジェローデル家直系の男にしか現れないのよ。フェルディナンもヴィクトールも貴女に似ているというよりは、アルフォンスに似ているわね。あの目をご覧なさい。あれがジェローデル家の瞳よ。冷たそうに見えるけれど、それはとても透き通っているからなの」
「エドワールはどうですの?」
 マルグリッドの問いかけにイレーヌは答えた。
「あの子はヴァラン家の顔よ。私はジェローデル家の瞳を継ぐ者が欲しかったのだけれど…」 
 肩をすくめ、愛しくてたまらないと言うようにイレーヌは笑った。
「あの子はヴァラン家独特の愛くるしい瞳をしているでしょう。でもヴィクトールは典型的なジェローデル家の瞳よ。そしてフェルディナン‥ あの子はちょっと違うわね。間違いなくジェローデル家の瞳だけれど、不思議な色をしているわ。あんな神秘的な色を持って生まれた子はいないわ」
「そうかしら…」
「そうよ。まるで色違いの宝石だわ。それに二人とも信じられないくらい綺麗な子だし。マルグリッド、考えてみて。あと十何年かしたら、ベルサイユ中の女がこの二人に夢中になるわ」
「まあ、イレーヌさまったら」
 今まで詰めていた息を吐き出すように笑うマルグリッドにイレーヌは強く言った。
「私にはわかるわ。見ていてご覧なさい」




「何だって? もう一度言ってみろ」
 突然意外な言葉をかけられ、心外だと言うように、少年はフェルディナンを見た。彼は足を下ろすことはせず、フェルディナンを煽るかのように足の動きを大きくした。
「足をどけろと言ったんだ!」
 フェルディナンの頭に充満した怒りは今までの彼の平和な日々にはないものだった。
 会うなり少年は「母様に触るな」と言い、フェルディナンを突き飛ばした。だがその行為の意味をフェルディナンはすぐに理解した。それは少年の、母親を大切に思う心から出たものではないのか。
「嫌だといったら?」
 少年は挑発するかのように顎を上げ、足を揺すった。大切な者を汚される痛みがフェルディナンの胸を突き刺した。フェルディナンは黙って少年の元に行くと彼の胸を掴み引っぱった。
「これは母様のブランコだ。お前が汚い足を乗せる所じゃない!」
 少年は引っぱられた弾みで上げていた足を地面に下ろした。
「あやまれ!」
 フェルディナンは少年に掴みかかった。年長の者に向かっていく行為がどんなものか考える余裕はなかった。少年が頬を叩いた。だがそれはフェルディナンの怒りをますます大きくした。
「あやまれ! お前は母様を侮辱した!」
 フェルディナンはなおも少年に掴みかかった。少年の手が頬を叩き、頭を突いてきた。今まで人を叩いたこともなければ、叩かれたこともなかった。どこを掴んでどう組み付いていったか分からなかった。夢中で手を出し、触れたものを思いっきり掴むしかなかった。
「あやまれ! 母様にあやまれ! 僕の母様にあやまれ!」
 闇雲に腕を振り回し叫んだ。
「これは母様のブランコだ。父上がジルに言いつけて作らせたものだ。あやまれ!」
 フェルディナンの剣幕に押されるかのように少年がたじろぐのがわかった。フェルディナンは地面に膝を付くと身を低くして彼の足元に潜り込んだ。少年の足に両腕で抱きつき、力を込めすくい上げた。彼を組み敷き、母に詫びを入れさせなければ怒りは収まらなかった。
 足を取られた少年は地面に仰向けに倒れた。フェルディナンは素早く立ち上がると少年の真っ白なシャツの上に足を乗せた。フェルディナンは足に体重をかけた。足の下は激しい息と共に上下している。生身の体。そこに体重をかける。年長の者を足の下に敷いている。それは思いもかけぬ興奮だった。湧き上がる嗜虐心にフェルディナンは目まいさえ覚えた。
「悪かった」
 見下ろす少年はあっさりと言い、降参とでも言うように手の平を上に向けてみせた。フェルディナンは少年の胸に乗せた足を僅かにずらした。白いシャツの胸が泥で汚れている。それは幾分かの達成感をフェルディナンにもたらした。湧き上がる興奮が途中で折られたような形だったが、足の下の少年は許しを乞うている。フェルディナンは彼から足をどかした。
 少年は立ち上がると大きく息をつき、フェルディナンを見た。そして何も言わず胸のポケットからハンカチを取り出すとブランコの前にひざまずいた。ハンカチで板の上に落ちた泥を拭う。そして膝をついた姿勢でフェルディナンに向き直ると胸に手を当て、頭を垂れた。
「僕が悪かった。許して欲しい。母上の物だとは知らなかった。僕は、その、おまえの物だと思ったんだ」
 一時は夢中だったから気がつかなかったが、エドワールの力は強かった。殴られた箇所が今になって痛み出した。だがフェルディナンの心は誇りでいっぱいだった。



「瞳を受け継いだとなると、この子達はジェローデル家の男達の特徴も受け継いでいるわね」
 イレーヌの意味ありげな笑いにマルグリッドがつられて笑った。
「優雅で‥ 洗練を何よりも良しとし‥ 決して争いごとは好まない。女を飽きさせることなく、愛については寛容で貪欲。ねえ、マルグリッド、そうじゃない?」
「まあ、イレーヌさまったら」
 マルグリッドは頬を染め、イレーヌからヴィクトールを抱き取った。
「父も叔父も祖父も皆そうだった。一番上の兄など実に色濃く受け継いだわ。その血を引いているアルフォンスですもの‥ ジェローデル家の特長がこの子達に見事に受け継がれている…」
 感慨深けに言い、イレーヌは立ち上がった。
「子供達は仲良く遊んでいるかしら。ちょっと見てくるわ」
 その時だった。開け放した扉の陰に二人の少年が現れた。
「まあ! どうしたの?! 二人とも!」
 先に声を上げたのはマルグリッドだった。眠りかけたヴィクトールを抱きしめたまま、マルグリッドは廊下に走り出て大きな声で助けを呼んだ。彼女の声に駆けつけた侍女達が口々に叫び声を上げ、静かだった館は騒然となった。
 胸と服を泥だらけにしたエドワールを見てフェルディナンは初めて彼を気の毒に思った。泥に汚れただけではない。彼の顔は目の下から口にかけて、斜めに赤い線がうねっていた。血の気の薄い顔についたそれは、時間と共に醜く盛り上がってくるようだった。美しく巻いていた髪は乱れ、あちこちに葉をつけていた。だが自分の身にも何か起きているらしいことにフェルディナンは気がついた。顔を拭った袖口に血がついている。目の覚めるような鮮烈な色は彼の心に恐怖をもたらした。恐怖は子供に叫び声を上げさせる。色だけでなく母の慌てようと侍女達の右往左往ぶりが恐怖に拍車かける。大変な事が起こっているに違いない。だがフェルディナンの心に芽生えたプライドが叫ぶ事を阻止していた。
 椅子に寝かされ、冷たい布で顔を拭われながら、フェルディナンはエドワールを探すように首を横に向けた。彼はイレーヌの前に立っていた。二人とも黙ったままだ。エドワールの頬にはっているものがはっきり見て取れる。あれは自分が付けたものだ。小気味よさと、得意と、幾分かの悔恨を感じながら、喉に味わうものが血の味だとフェルディナンは悟っていた。
「一体どういうこと?」
 大騒ぎの母や侍女達と違い、イレーヌの声は静かだった。
「原因はなんなの?」
 エドワールの頬の傷を手当てしようとする侍女を制しイレーヌは言った。静かで清んだ声だった。エドワールは前に倒していた首を上げると、しっかりイレーヌを見つめ、言った。
「僕が悪かったのです」
 彼の声も静かだった。
「そう。それで、許してもらえたの?」
「はい」
「それなら良かったわ」
 短い会話だった。イレーヌはフェルディナンの寝ている椅子の側に膝をついた。
「フェルディナン、ありがとう。貴方の優しさに感謝します」



 夕食が済み、夜のお茶も済んだ後で母に言われ、フェルディナンは客人を部屋に案内した。あれだけ喋ったのに、母とイレーヌはまだ話があるらしい。
 フェルディナンは二階の客室に向かう階段の途中でエドワールを振り返った。食事の間中エドワールはおとなしかった。おとなしいといっても、紳士然としているだけであり、彼は怒っているでも、しょげているでもなかった。エドワールはイレーヌともマルグリッドとも良く話をしたし、女達に促されればフェルディナンにも話しかけた。服も食事用に着替え、頬にみみず腫れさえ走っていなければ完璧な紳士だった。エドワールの静かな快活さはフェルディナンに自責の念を起こさせた。
「こっちだよ」
 フェルディナンは二階の扉を開けた。エドワールの今夜の寝床になる部屋はきちんと用意され、整えられている。
 部屋に入るとエドワールは窓に歩み寄り、重くかさなり合ったカーテンを開けた。六月の長い日はすっかり暮れ、森の木立を窓に映している。
 フェルディナンはまだエドワールに謝っていなかったことを思い出した。フェルディナンの爪の手入れを怠った侍女はマルグリッドに叱責され、フェルディナンの爪はことのほか念入りに手入れされた。綺麗に切りそろえられ磨き上げられた爪をみながらフェルディナンは思った。謝らなければ… 直ぐに自分の非を認めたエドワールに対し自分はまだ謝っていない。
「エドワール、さっきはごめん」
 足に男の子を敷いた時ほどいい気分ではなかったが、紳士としてどうあるべきかフェルディナンは考えた。
「もういいよ」
 すっかり興味を失ったことを聞かれた時のようにエドワールはあっさり言い、フェルディナンの肩に手をかけた。
「それより、明日は聖ヨハネの日だ。この家には魔よけもないし、祝い火も焚いてない。いいのか?」
 どこか面白がる様子でエドワールはフェルディナンに笑いかけた。
「魔よけ?」
「そうさ、魔物達が地面から這い出してきたらどうする。魔物は子供をさらっていくぞ。今夜は誰が連れていかれるんだろう。おまえの弟かな」
 闇夜と月の映る窓の方向に目を向けながらエドワールは言った。
「魔物?」
「聖ヨハネの前日に魔物達がやってくるのを知らないのか?」
 エドワールは笑い出していた。エドワールの顔を見ながらフェルディナンは庭に焚かれた火を思い出していた。あれはいつだったか。大きな木を組み上げ焚かれた火は夏の空を焦がすようだった。庭にはご馳走が用意され、フェルディナンの頭には小枝で編んだ草の冠が乗せられていた。使用人達によって家々の戸にはどこにも同じような枝で組んだ輪かかけられていた。若い一人の侍女はフェルディナンの服のボタン穴に草花の小さな束を入れこう言った。「ニガヨモギです。お守りになりますわ」


「この館には男がいないみたいだが…」
 不安気な顔のフェルディナンを見遣り、エドワールが言った。エドワールの声を遠くに聞きながら、フェルディナンは考えを巡らせた。あれはヴィクトールが生まれる前の夏だった。庭に焚かれたあれが、聖ヨハネの祝い火だったのだろうか…
「この館には迎えに出る使用人もいないし… 男は僕達だけか」
 諦めたようなエドワールの声は不吉だった。
「いや、ジルがいる。銃だって使えるはずだ」
 気がついたように言うフェルディナンにエドワールは笑いながら答えた。
「魔物に銃は効かないさ。奴らは空を飛ぶし、逃げるときは地面に潜るから」
「じゃあ、どうすれば」
 先ほど『おまえの弟がさらわれる』と言ったエドワールの言葉がフェルディナンの耳から離れなかった。弟が心配だった。ヴィクトールは子供部屋ですでに寝息をたてている。弟には乳母と侍女が交代でついている。だがどちらも女だし、魔物が襲ってきたら弟を守りきれるだろうか。
「おまえ、魔物を見たくないか?」
 フェルディナンの心配などお構いなくエドワールはむしろ楽しそうに言った。
「こんな森がきっとあいつらは好きだ。ここなら、出そうだ」
 エドワールは不吉なことを言い、窓から何かを呼び入れようとでもするかのように、もう一つのカーテンを開けだした。
「やめろよ」
 フェルディナンはエドワールに駆け寄ってやめさせたかったが、足を動かす事ができなかった。
「そうだな。蝋燭の明かりがあったら駄目かもれない」
 あっさりと言いながらエドワールはカーテンを閉めた。次にエドワールが蝋燭を消しにかかるのではないかと危惧したフェルディナンは安堵の息をついた。
 エドワールは一度開けたカーテンをすっかり閉めると窓とカーテンの間に入り込み、隙間から手だけ出しこちらに向かって手招きをした。エドワールの姿が見えなくなると、見慣れた部屋がひどく恐ろしく見えた。フェルディナンは窓のところにかけ寄り、エドワールの隣に滑り込んだ。誰でも良かった。誰かと一緒にいたかった。
「ここからだと月も森も良く見える」
 カーテンで隔てられると部屋の明かりは届かない。子供二人が潜り込んだ隙間は月明かりだけで薄暗かった。エドワールの顔は陰になっていたが、頬の傷は良く見えた。
「去年は眠ってしまったが、今年は絶対見てやる。フェルディナン、一緒に魔物を見よう」
 まるでピクニックにでも行くかのような提案をフェルディナンは不思議な気分で聞いていた。ひどく心躍る体験ができそうだったが、恐怖も生半可ではなかった。
「‥うん」
 中途半端に返事をしながらフェルディナンは魔物がヴィクトールでなく、ここにいるエドワールを連れていってくれないかと思った。弟は分厚いカーテンの掛かった子供部屋で眠っている。そんな弟より、窓に張り付いて魔物見物をしようとしている子供の方がきっと目立つだろう。
「どこかに魔物達が集まる山があるらしい」
 空の向こうに目を向けながらエドワールは何かを待つかのようだ。エドワールなら魔物に連れさられても本望だろう。
「僕はここにいる。お前はどうする?」
 まるで試されているかのようだった。エドワールに弱虫と思われたくない。返事をしないフェルディナンにエドワールは畳み掛けるようにいった。
「怖いなら、母様達の所へ行けばいい」
「怖くはないよ」
 フェルディナンの返事の裏にあるものを悟ったようにエドワールは笑った。
「魔物も妖精も普段からその辺にいるのさ。でも誰の眼にも映らない。目で見られるのが聖ヨハネの前の晩なんだ。精霊は怖いものじゃないよ。もっとも、怖い奴もいるだろうけど」
 高らかに声を上げて笑うエドワールは物知りだった。フェルディナンの中で恐怖が尊敬に変わっていった。聖ヨハネの日に精霊が見られるなら見たいと思った。
 フェルディナンの表情を探るようにしていたエドワールはズボンのポケットから何かを取り出し、フェルディナンの目の前に掲げてみせた。
「なに?」
 目の前に掲げられた物をよく見ようとフェルディナンは手を伸ばした。金貨のようだった。だが普通の金貨ではない。金貨よりずっと大きくて、掘られている像も違っている。
「触るな」
 フェルディナンの前に突き出した手を引っ込め、距離を取りながら、エドワールはそれを掲げ直した。
 金貨は不気味な顔をしていた。落ち窪んだ目は空洞で、全ての歯が剥き出しになった人間の顔。髑髏と言われるものだ。フェルディナンはそれを知っていた。気味の悪い本に描かれていたものと同じ顔だ。
「アステカの金貨さ」
 エドワールは得意そうにフェルディナンの鼻先にそれを突き出してみせた。
「これは父様が船乗りから買ったものだ。海賊のものだ。商人が言うにはアステカ神の呪いがかかっているらしい。呪いは邪悪な物を殺す力がある」
 エドワールが金貨を動かすと髑髏が笑った。
「家には海賊のサーベルもある。血がついていたところはどんなに洗っても曇りが取れないんだ」
 まるで愛しい者のようにエドワールは金貨を撫で付けた。
「大きくなったら僕は海賊船に乗り込むんだ」
 そこまで言いながら、エドワールははっとしたようにフェルディナンを見た。
「誰にも言うなよ。お前も来るか? お前は強いし、16になるまで黙っていたら連れてってやってもいい」
「行くよ」
 フェルディナンは直ぐに返事をした。エドワールが口にした『邪悪な物を殺す力』に強く惹かれた。海賊がどんなものかは良く分からなかったが、心躍る体験をさせてくれそうであった。もう怖いものはなかった。エドワールがいれば何も怖くはないのだ。
「じゃあ、約束だ」
 エドワールがフェルディナンの前に手を出した。その手をしっかり握り締め、フェルディナンは新しい日々が始まるのを感じていた。エドワールの話を聞いていると今までの生活がひどく退屈なものに思われてならなかった。エドワールと過ごす夜。今夜は精霊を見るんだ。
「ねえ、精霊達は、いや、魔物はどこから来るの?」
 フェルディナンの問いかけにエドワールは得意そうに答えた。
「運が良くなくちゃ見られない。まずは、一晩起きていられなきゃ駄目なんだ。これが一番難しいんだ」


Fin



付記

一年で最も日の長い夏至のお祭りである聖ヨハネの日を題材に書いてみました。
暦の上での夏至は6月21日ですが、かつてヨーロッパでは6月24日の聖ヨハネの日を夏の始まりとして祝っていたそうです。
人々は祝火を焚き、立ち上る煙で収穫を占ったり、健康を祈り、残り火を家に持ち帰ってかまどの火を新しくし、家の中へ幸運を呼び込んだとされます。

以下本からの抜粋です。

この日の前夜には日本のお盆のように、魔女、妖精、死霊などの超自然が異界からいっせいに地上に姿を現し、それを肉眼で見ることができると信じられていたからである。
その影響で、聖ヨハネ前夜祭には人々はある種の憑依状態に陥ったりすると信じられていた。英語でmidsummer madnessと呼ばれる狂乱がこれである。
たとえばこの夜には草花が特別の魔力を持つとされることから、人々は花を摘んだり抜いたりしてその力にすがる。ムラサキベンケイソウ、クマツヅラ、ニガヨモギ、モウズイカなどの聖ヨハネの草花と呼ばれるものがそれである。これらの草花は火事や雷から家を守ったり、病気や災難から人を保護する。
この夜に見た夢は現実になると信じられていた。シェイクスピアの「真夏の夜の夢」はこうした聖ヨハネ前夜祭の習慣を下敷きにしているのだろう。

(鹿島茂 著 「フランス歳時記」より)



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