2002 12/17

聖ニコラウス




「父上、教会で聖ニコラウスの話を聞きました。聖ニコラウスは奇跡を起こせるって本当ですか?」
 ジャルジェ家の嫡男オスカル・フランソワは父の書斎で問いかけた。父のレニエ・ド・ジャルジェは長く将軍職を務めフランス王家を守る軍隊を統率してきた軍人だった。
 ジャルジェ家は王家に劣らぬほど長い歴史を持つ旧家で、代々軍事に携わり、歴代の王の信任を勝ち得るほどに忠誠を尽くし、多くの名将を輩出してきた家柄だった。
 その跡取息子オスカル・フランソワは今七歳。今度のノエルで八歳になろうという彼の評判はベルサイユ中に広く知れ渡っていた。きらきらした金色の髪と父親に似た聡明そうな蒼い瞳はレニエの自慢だった。それだけではなく彼は俊敏さや利発さや快活さにおいて他の子供達が追随できないような利点を数多くもっていた。
 教えれば何でも吸収し、あらゆる事に興味を持ち、好奇心のかたまりのような探求心は父親として様々な事を教えたくなる。多少早いかと思っても最初の取っ掛かりさえ教えればたちまちそれを習得し熟練していった。打てば響くような才気と父の与える物に間違いなく興味を示す様子はジャルジェ家の跡取として申し分なかった。

 これであれが男であったら…。レニエは何度同じ想いを繰り返しただろう。オスカルが何でも出来れば出来るほど、聡明であればあるほどレニエはやるせない想いを抱き運命の皮肉を呪った。ベルサイユ中に広まった評判というのは実はレニエが女であるオスカルをジャルジェ家の跡目を継がせるため男として育てているという前代未聞の事柄が噂好きな人々の関心を引いたにすぎなかった。
 レニエは六人もの子に恵まれたがそこに男は一人もいなかった。ジャルジェ家をレニエの代で途絶えさせる訳にはいかないのに男の子の誕生を待ち望む彼の元に男は一人も来なかった。しかし、六番目の子供を産んだ妻にこれ以上子を産ませるのは忍びなかった。彼女は命に代えても次は男の子を産みますと言ったが、六回めだというのに妻は難産で医者はこれ以上子供を産めば彼女の命の保障はないと言った。事実オスカルを身ごもってからの妻の様子は辛そうでレニエもこれが最後と決めていた。
 母の命を削ってでも子は産まれてくるのだ。妻の衰えようとは裏腹に産まれた子はつややかな珠のようで元気がよかった。産まれたばかりの存在を示す大きな泣き声。小さくか弱いものは周囲を圧倒するほどの力で存在の厳然たる事実を主張していた。
 よく産まれてきた。レニエは命の神秘さに胸が熱くなった。今までどの子の誕生の時にも感じた事のない大きな感動だった。子は無事に産まれて当たり前だった。レニエは産まれたばかりの我が子を抱き取った。将軍家当主として、女を授かった父親として、初めての事だった。初めは手が震えた。しっかりした重みと赤ん坊独特の甘い匂い。赤ん坊は見えるのだろうか、レニエをじっと見つめた。レニエと同じ蒼い目。こんな目は初めてだ。
「オスカル、これがお前の名だ」
 これが最後だ。私の息子。この子は私のものだ。


 七歳になったオスカルはその辺の男よりはるかに強かった。乳母のマロン・グラッセが「お嬢様」と呼びハラハラしながら後をつけまわしていたが、喧嘩や剣において今までオスカルが誰かに負けた事はなかった。
 オスカルが顔に傷でもこしらえてこようものなら、マロン・グラッセはおおいに嘆き、大慌てで手当てに走り、その傷をこしらえた相手の所に乗り込んでいきそうな勢いだったが、レニエはいさかいの原因を聞きオスカルに考えさせた。勝ち負けよりも大切な事がある。レニエは跡取が卑怯者になる事を何よりも恐れた。
 卑怯者どころかオスカルは七歳にして強固な正義感を持っていた。卑怯な手段を何よりも嫌いそういったものとは徹底的に戦った。常に正攻法で真正面からぶつかっていくやり方は幼い為、技巧といったものに縁がなかったが、妻にあなたにそっくりだと言われるとレニエに思い当たる節がないでもなかった。
 オスカルは女だった。女として育てたなら美しさにおいても誰もかなわないだろう。親馬鹿と言われればそれまでだがオスカルの風貌は人目を引くのに充分なものがあった。でも容姿はこの際関係ない。オスカルを男として育てるには美しさなどむしろ邪魔だった。娘が美しければ美しいほど、跡取として、男として育てることにためらいが生じてしまう。
 オスカルは自分を男だと思っていた。何の違和感もなかった。オスカルはレニエが情熱を傾けて育てる愛すべき息子だった。オスカルはレニエのもとでレニエの理想を具現しながら育っていった。


「父上、もしそうなら僕、聖ニコラウスに願いたいのです。心を込めて祈ったらニコラウスは願いを聞き届けてくれますか?」
 小さな息子はレニエをまっすぐ見上げて言った。蒼い瞳は部屋の明かりを反射してきらめきオスカルの決意を示していた。
「奇跡は簡単に起こるものではない」
 レニエは慎重に言葉を選びながら言った。オスカルは安易に物をねだる子供ではなかった。オスカルはうつむきそれでも意を決したように顔を上げた。
「僕、どうしても聞いてもらいたい事があるのです。ニコラウスは子供の味方でしょう。もし願いを聞いて叶えてくれるのなら僕もうニコラウスから何も貰わないと誓います」
「何を願うつもりなのだ?」
 レニエはオスカルに問いただした。
「僕の願いは…」
 オスカルはレニエの机に歩み寄りその縁に両手をかけ父を見上げた。
「アンドレの母上を生き返らせて欲しいのです。聖ニコラウスには死んだ人を蘇らせる力があるのでしょう?」
 オスカルの瞳はいつも真っ直ぐに相手を見つめる。我が子でありながらオスカルの瞳にはすべてのものを浄化するような光があった。レニエはこの瞳の清冽さに恥じないようオスカルと対峙してきた。
「オスカル…」
 レニエは息を吐きオスカルから視線を外し机の上を見つめながら言った。オスカルのひたむきさに敵わないと思う事がある。
「奇跡とは願うものではない。結果として起こるものなのだ」
 オスカルはさらに父に歩み寄り、机の上に組んだレニエの手に触れた。
「どんなに祈ってもだめなのですか?」
 小さな手に込められた想いが伝わってくる。
「祈りが無駄なことなどない」
 レニエはオスカルに向き直った。我が子の純真な心根を大切にしながら理を教えるにはどうしたらいいだろう。
「オスカル、アンドレのために祈りなさい。心を込めて祈るのだ。奇跡の為ではなくアンドレの為に祈りなさい」
 レニエはオスカルの手を握り締めた。
「アンドレに神の加護があるように…。母を亡くしてもアンドレが強く生きていければそれは神の加護なのだ」
 オスカルの瞳から光が消えた。蒼い瞳にまつげがかぶさってくる。
「オスカル、聖ニコラウスに願うよりお前がアンドレの為に何ができるか考えなさい。母を亡くした子供はアンドレだけではない。奇跡の力が無くても子供は強く生きていける。神がそのような力をお与えになったのだ。オスカル、この世に奇跡が無いのではない。奇跡は形を変えて訪れる事がある。奇跡を起こすのは神や聖人だけではない。オスカル、お前の心の中にもそれはあるかもしれないのだ」
「父上…」
 オスカルはレニエの手から手を離し机の上からも手を下ろした。
「わかりました」
 オスカルはわかっていない。残酷な神だと、気まぐれな聖人だと、思っているだろう。そして頼りにならない父親だと。レニエはオスカルを抱しめたい衝動を押さえながら言った。
「オスカル、お前は優しい子だ」
 頬に手を添え、その手を肩に置いた。オスカルわかって欲しい、一番アンドレの力になれるのはオスカル、お前なのだ。

 オスカルは寂しそうな肩をして部屋から出て行った。アンドレは乳母のマロン・グラッセの孫だった。両親を亡くしたアンドレはたった一人の身寄りを頼ってジャルジェ家に引き取られた。オスカルの遊び相手兼護衛という名目だったが、会ったその日から二人は気が合ったようであっという間にすっかり仲良くうちとけていった。召使の子供と親密に接するなど諌める向きがあるかもしれない。使用人と主家の者との区別はつけるべきだと。レニエもそんな事はわかっていたし、ジャルジェ家の使用人が分を超えたことなど一度もなかった。アンドレの振る舞いについてはマロン・グラッセが口やかましく彼を躾けていた。アンドレは八歳の子供でありながら身分というものを敏感に感じ取っているようだったが、彼は素直で明るく卑屈な態度は認められなかった。レニエはアンドレにもこの家の子供達と同じように幸せになって欲しかった。
 レニエはオスカルがアンドレにいたわりの気持ちと見せた事が嬉しかった。当主は毅然をしていながらも、情け深くなければならない。レニエの信条だった。それは同情とかそんなものではない。領地の民に慕われ家人や使用人から信頼される人間、レニエはオスカルにそうなってもらいたかった。


 オスカルは父の書斎を出ると自分の部屋に向かった。奇跡を願うのなら安易に口にするのではなかった。オスカルは父に相談した事を後悔した。それでは起こりそうな奇跡も効力を失ってしまう、そんな気がした。黙って自分の心の中でひたすら祈るのだった。今からでも遅くはないだろうか。
「オスカル」
 自分の部屋の扉に手をかけた時、誰かに呼びとめられた。アンドレだった。アンドレは手に船の形をした二つの入れ物を持っていた。
「オスカル、ジョセフィーヌさまがこれを。こっちはオスカルの分だよ」
 アンドレは赤い方をオスカルに手渡した。
「これを部屋の隅か廊下に置いておくと聖ニコラウスが通りかかった時何かを入れてくれるかもしれないよ」
 アンドレは黒い瞳をつやつやさせながら言った。オスカルは船を受け取った。
「皆色が違うんだ。ジョセフィーヌ様が銀でオルタンス様は紫、それから… どうしたの?オスカル、旦那様に叱られた?」
 アンドレはオスカルの顔を覗き込んだ。
「元気がないよ」

     ――ニコラウス、今来て。今すぐに来て! 僕は小さすぎて何も出来ない――

 オスカルは心の中で叫んだ。
「何でもないよ」
 オスカルは両手で船を持った。こんな小さな手では何も出来ない…。
「僕は前にもニコラウスから贈り物を貰った。オスカルも?」
 アンドレはオスカルに近寄ると自分の緑の船をオスカルの船に近づけるようにして並べた。
「アンドレ、覚えているの?」
「もちろんさ。あの時は母さんもいた」
「アンドレ、母上に会いたい?」
「そりゃね。でも、もういいんだ」
 アンドレは寂しそうに微笑んだ。オスカルは顔を上げて天井を見た。首を回して遠くの窓の向こうを見た。
「オスカル、何か探しているの?」
 アンドレも同じようにあたりを見回した。
「いや」
 ニコラウスは来ない。
「母さんが死んだ時はとても悲しかったよ。でも今はここに来られて良かった。僕一人ぼっちになった時、隣のおばさんの家の子になるかって聞かれたり、お前は教会の子になるのだって言われたりした。僕は何故一人でずっとここに居てはいけないの?って思ったけれど、今はここに来られて良かったと思っているよ。おばあちゃんもいるし、オスカルもいるのだもの」
「アンドレ、本当にそう思っている?」
 オスカルはアンドレを見つめた。
「うん。オスカル、泣いているの?」
 オスカルは顔を上げた。涙がこぼれないように。
「オスカル、何を探しているの?」
 アンドレはもう一度あたりを見回し廊下のつきあたりにある窓に目をとめた。アンドレの顔が明るく輝き、笑みがこぼれた。
「わかった、オスカル、あれだね」
 アンドレは窓を指差しオスカルの肩をたたくと窓にかけ寄った。オスカルもアンドレについて窓に歩み寄った。窓の外の暗闇に白い粒が点々と舞っていた。
「雪だ! きれいだね。積もるといいな」
 アンドレは窓に手を付き外を眺めた。アンドレが手を付いたところのガラスが曇る。
「うん」
 オスカルは自分の赤い船をアンドレの緑の船に並べた。アンドレの肩に頬を寄せ空から舞い散る白い雪を見つめた。
 これは、ニコラウスからの贈り物? ニコラウスは今、ここに、来たの?

 書斎から出たレニエは窓の前に寄り添う二人をみつけた。聖夜に現れる天使のようだと思った。二人の背中に透き通った羽が見える。二人でこのまま何処かへ飛んで行ってしまいそうなそんな気がした。
 聖ニコラウスが見せた幻か? いいや二人はこの家の子だ。男の子を授けてくれなかった神があの二人を授けてくれた。神の思惑がどこにあるのかわからない。でもレニエは幸せだった。良い仕事、良い妻、良い家庭に恵まれ子にも恵まれた。この家の毎日に感謝する。もうすぐ階段の下から足音が聞こえるはずだ。
「お嬢様、アンドレ、早く寝ないとニコラウスがこの家を通り過ぎてしまいます。まあ、お嬢様こんな薄着で窓に張り付いていたらお風邪をお召しになります。アンドレお前も早く寝るんだよ。さあこっちへおいで」
 レニエは三人に気づかれないようにそっと書斎へ戻った。



Fin




付記

サンタクロースの原型とされる聖ニコラウスをモチーフにしました。
聖ニコラウスの日は彼の命日である12月6日ですが、この祝日が世界に広まり、色々な国の解釈や風習があいまってサンタクロースになっていったのは興味深いと思います。



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