2003 7/13

万霊節



 丘の上に建つ二つの墓。墓標に刻まれる名前。私はその名を指でたどる。突然建った墓の真新しい墓碑銘は悲しみというよりは信じがたい思いしか残さない。
 私は夏のさなかに夏の花を摘み、秋には秋の花をそこに捧げた。墓に花を供えながら、私は彼らが来るのを待った。
 そこには何人もの人が訪れ、その前に佇み、花を手向けていった。一人で来る者、二人連れや数人で来る者、様々だった。一目で貴族とわかる老夫婦や若夫婦、男達、女達… 質素な身なりの若者もいれば、軍服姿の軍人もいた。彼らは皆一様に深い悲しみにくれ、そこを動かなかった。時を忘れたように立ち尽くす沢山の人を私は見てきた。
 寒風が髪をなぶり、丘の上から地平線に吹き降ろす。枯れた野を風が吹き渡ってゆく。
 ここは私の聖地。毎日のように訪ね、日課のように花を捧げる。今日も墓の前に一人の兵士。彼はそこに座り続け、動かない。


 アラスの丘の風に吹かれながら、私は最初の出会いに心を巡らせる。あれは私が物心ついた五つか六つの頃だった。領地に住む子供達に新年の贈り物があると聞き、私は兄と一緒に出かけて行った。私がお屋敷に足を踏み入れたのはその時が初めてだった。
「僕、お屋敷に入るのは初めてだよ」
 興奮気味に話す兄に付いて行きながら、私はお屋敷というものがよくわからなかった。行けば何かが貰えるかもしれない、子供らしい好奇心しかなかった。だがそこがよく兄達と遊びに行く木立の中に囲まれた一角だとわかると、好奇心に興奮が重なった。いつもは閉まっている門は開けられていた。兄に続き、躊躇いがちに入って行くと、包みを抱えた子供とすれ違った。彼は頬を上気させ、小脇に贈り物を大切そうに抱えていた。兄が振り向いて私を見た。興奮で胸が高鳴った。
 少し先に紺色の服を着た女の人がいて、私達を手招きした。おとぎの国へ行くようだった。兄と私はその人に連れられて建物の中に入っていった。

 そこは何と言ったら良いだろう、素晴らしく煌びやかな別世界だった。吹き抜けの大きな天井から光のしずくが降り注いでいた。それは私が初めて見るシャンデリアだった。
 高い天窓から入った太陽の光がシャンデリアに跳ね返り、きらめいていた。一歩踏み込んだ世界の高さと広さに私は戸惑った。大理石の床や彫刻のある柱。白と青味がかった灰色でまとめられた色彩にこぼれるような光が舞い踊っていた。
 次に私の目に飛び込んできたのはホールに山と積まれた包みだった。つやつやとした白いテーブルは優雅な彫刻の入った足を持ち、その上に沢山の色とりどりの包みを乗せていた。その前には幾人のも子供達が群がり、一人ずつ贈り物を貰っていた。テーブルの向こうにはうっとりするほど綺麗なドレスを着た女の人が何人かいて、皆優しく微笑みながら子供達に包みを手渡していた。兄と私は列の後ろに並んだ。
 私はテーブルの上に描かれた薔薇の模様と子供達に贈り物を渡す女の人のドレスの光沢やレースの美しさに心を奪われていた。
 ふと横を見た私の目に壁際に座った一人の人物が映った。その人は豪華なドレスを着てもいなかったし、きらめく髪飾りもつけていなかった。その人は白のブラウスに黒のキュロットといういでたちで椅子に座っていたに過ぎなかった。でも私には降り注ぐ光を反射するシャンデリアにように見えた。私は兄の側を離れ、誘われるようにその人の所へ歩み寄った。その人の側にはもう一人、人がいて彼は椅子の側に立っていた。背の高い人で、腕を組み子供達を見ていた。
 私は椅子に座った人の側まで行くと、その人の膝に手を置き、その人の顔を見た。その人は迷子の犬のように紛れ込んできた私を抱き上げると、膝に乗せてくれた。
 その時の事を忘れない。綺麗な金髪と深い蒼い瞳。とても良い匂いがした。その人は私を見て微笑んだ。
 傍らにいる人は男の人だと、この時の私でもすぐにわかったが、私を膝に抱上げてくれた人は男の人か女の人がわからなかった。服装からいったら、男の人なのだろう。だが、その時の私はあまりに子供で、ただ美しいものにうっとりと見惚れていたに過ぎなかった。
 その人は私を膝に乗せたまま私を見ていた。きっと私はこれ以上ないほど幸せそうな顔をしていただろう。なぜならあの時の事をこんなにはっきり思い出せるから…
 その人は笑みを浮かべたまま私を抱き上げると、かざすように頭上に差し上げた。私はすぐ横に立っていたもう一人の人に抱きかかえられた。その人は優しそうな黒い目をした男の人だった。
 彼は男だと、椅子に座る人と違うと感じたのは、仄かに感ずる匂いと抱えられた腕の強さだった。その人は黒い瞳で私の目を覗き込んだ。
「オスカル、この子は美人になるぞ。お前と同じ蒼い瞳だ」
 その言葉に椅子に座っていた人は立ち上がり、隣に立つ人の腕に抱かれた私の顔を見て言った。
「名前は?」
 透き通ったはっきりとした声だった。
「マリー」
 私は答えた。
「大きくおなり、可愛いマリー」
 その人は私の頬にそっと指を置き、優しく微笑んだ。頬に添えられた薔薇色の指先は誰よりも優しく、白く細い指は私の記憶の中にはっきり残っている。
 いなくなった私を探す兄に気づいたのか、男の人は私を下に降ろした。
「さあ、贈り物を貰っておいで」
 彼の声にうながされるように私はテーブルに寄り、薄紫のドレスを着た女の人から贈り物を受け取った。
 

 家まで待てず、兄と私は途中の切り株に腰をおろし、包みを開けた。中には手袋と編んだ襟巻が入っていた。それから良い匂いのする温かいふわふわの焼き菓子と、馬車をかたどった入れ物に入った淡い色のついた砂糖菓子。兄と私は興奮しながら包みを開けていった。光沢のある生地につつまれた幾枚かの硬貨も出てきたし、私の包みの方にはリボンも入っていた。こんなに美しい物を見たのは初めてだった。夢のような新年だった。
 家に帰り、私は父や母にお屋敷が立派だった事、キラキラ光る大きなシャンデリアを見た事、部屋中にいい匂いがしていた事を話し、贈り物を見せた。その夜は子供らしい興奮の中で直ぐに眠りについたが、時を経るにしたがって、私の心にはっきりしたものを残したのは、あの女神のように美しい人だった。そしてその人の側に立っていた優しそうな黒い瞳。
 何故その人がそれほど眩しく見えたのかはわからない。見事な金髪のせいだったのだろうか…


 
 お屋敷にいた人はオスカル様だった。オスカル様はアラスを領地に持つジャルジェ家の跡取だと教えられた。幼い私にもオスカル様が特別な人なのだという事は分かった。
 それから私はオスカル様を時々見かけるようになった。いつもあの時いた黒い髪の人と一緒だった。風の中二人が馬を走らせるのを私はこの丘から何度も見た。風になびく金の髪とそれを追う黒い髪。追い上げるように、或いは寄り添いながら走って行く乗馬姿は緑の中がよく似合った。
 私はずっとオスカル様とアンドレは兄弟だと思っていた。それほど二人はいつも一緒で仲睦まじかった。だが年を経て、子供だった私もオスカル様が女である事、男のいないジャルジェ家の跡取に末娘であるオスカル様が選ばれた事、アンドレは召使いだという事を知った。私はこの時ひどく不思議な気がした。二人を隔てるものを感じたからだ。確かにオスカル様とアンドレが兄弟ならオスカル様が跡取になる事はないのだ。



 川遊びをしている私と兄にオスカル様が声をかけてくれた事があった。彼女は親しみを込めた目で私に微笑み「マリー」と呼びかけた。私はひどく驚いたが、オスカル様は笑いながら傍らにいるアンドレに言った。
「ほら見ろ、やはりマリーだ」
 そして私と兄に近づき、かがみ込んで優しく言った。
「レーモンのところのエルヴェとマリーだな。大きくなった」
 お屋敷の人オスカル様は気さくな人だった。アンドレは馬に乗りたそうにしている兄を鞍の上に乗せてくれた。
 屈託なく笑いあうオスカル様とアンドレの二人に、私はあの時と同じように見とれた。



 二人がアラスに来ているというだけで世界が明るくなったように感じた。風の中に姿を見るだけでなく、お屋敷に明々と灯がともる時、私は彼らの滞在を知った。
 私は父に頼まれてお屋敷に届け物をする事があった。ホールに出てくるのはアンドレで、いつも彼が応対してくれた。そんな一時の間でも、そこにアンドレを呼ぶオスカル様の声が聞こえていた。

 私は外からでも見えるお屋敷の庭に二人を見る事もあった。彼らは仲睦まじかった。寄り添っているわけではないのに二人の間には何かを感じさせるものがあった。彼らは主従でも兄弟でもなかった。



 だから、お屋敷に暖かい灯がともる事もなく、まして二人がここに来ないなど私にはどうしても信じられない。
 オスカル様とアンドレは恋人同士だったのですね。そして今は夫婦に… それがわかれば何故二人の墓がこのような所にあるのか、墓碑銘が何故このようになっているのか分かります。そして何故これほど多くの人がここを訪れ涙するのかも…
 
 墓の前に佇む人は何を思い、彼らと何を話しているのだろう。私もいつも花を手向けながら、小さな墓標に話し掛ける。
「オスカル様、私も恋をする年頃になりました」
 彼らに想いを馳せ話しかけると、心が清くなっていくような気がする。ここで私は悩みを打ち明け、相談をする。楽しかった事柄を話し、罪をも告白する。

 私は墓の前に佇む人から目を離し、背を伸ばし、耳を澄ました。蹄の音が聞こえたのだ。私は丘を駆ける。ここから見下ろす緑の草地に何度も走って行く二頭の馬を見た。
 私は遠く地平線までに目を凝らす。見下ろす野は枯れ、風だけが吹き渡っている。
 風に髪を煽られながら、私は遠く彼方に彼らの姿を捜す。冷たい風が吹きつける中、暗い空がどこまでも続いていた。

 風に散らされた花を集め、私は瞼の裏に彼らの姿を思い浮かべる。どれほどの想いが彼らの間にあったのか… 二人はどんな毎日を過ごしていたのか…

 私は花を編む。いつか彼らがここにやって来るのではないかと思いながら…



Fin



付記 

 11月1日の「万聖節」に続く11月2日の「万霊節」を題材にしました。死んでいった者達に想いを馳せ祈りを捧げる日です。

(出典: 「フランス歳時記」 鹿島 茂 著  中公新書発行 より)



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