2003 9/6

ロマネ・コンティ




 目の前にチェス盤。
 わたしどうやら寝ていたみたい。頬の下はすべすべした感触といい匂い。オスカルお姉ちゃまの膝の上だわ。
 半開きの目の前に駒を片付ける手。これはアンドレの手。ここはオスカルお姉ちゃまの部屋で、わたしはお姉ちゃまとアンドレがチェスをやっているのを見ていて眠ってしまったみたい。
 わたしは頬をお姉ちゃまの膝の上で動かし目を閉じた。
 オスカルお姉ちゃま、とってもいい匂いがするわ。しばらくこのままでいさせて。起きるのは嫌。
「アンドレ、今日カーヴ〔ワイン貯蔵庫〕に行ってみたらロマネ・コンティが沢山あった」
 お姉ちゃまの声が頭の上から聞こえる。
「そうさ、今日入ったばかりだ」
 アンドレが駒をケースにしまう音が聞こえた。
「アンドレ」
 オスカルお姉ちゃまのお腹が頭を押してきた。お姉ちゃまがアンドレの方に身を乗り出したのだ。
「だめだ」
 アンドレの素っ気ない声。
「いいじゃないか。一本くらい」
「だめだ。あれは旦那様のお客用に特別にコンティ公から譲ってもらったものだ。ワインなら来月大量に入るからそれで我慢しろ」
「どうしてもロマネ・コンティが飲みたい」
「おまえにあったら一気にカーヴは空になる」
「一本だけだ」
「だめだ」
 ロマネ・コンティ、知っているわ。おじいちゃまの大好きなワインよ。とってもいい匂いがするの。
 椅子が揺れた。お姉ちゃまが椅子の背にからだを投げ出したのだ。
「おまえのことだ、一本ですむか? なかったと思ってあきらめろ」
 アンドレが笑う声が聞こえた。
 わたしとお姉ちゃまが座っているのは長椅子。わたしはもう一度頭を動かした。
「それに…」
 アンドレが言葉を切った。
「一体何の祝いなんだ?」
 アンドレの声はいつもとちょっと違って聞こえた。アンドレってこんな声で話す事もあるのね。
「これが早く寝てくれた祝いだ」
 オスカルお姉ちゃまのお腹がヒクヒク動いた。
 笑ったわね。それに今わたしを指差したでしょう。
「アンドレ、持ってきてくれるか? そうしたら‥」
「嫌だね」
 お姉ちゃまの期待に満ち満ちた声をアンドレは素気無く遮った。
「おまえの悪事の片棒を担ぐのはごめんだ」
 お姉ちゃまが黙ったと思ったらわたしのからだはぐらりと揺れ、抱き上げられた。
「では、私が持ってくる。アンドレ、ル・ルーを頼む」
 からだが降ろされるのがわかった。お姉ちゃまの膝からアンドレの膝に。アンドレの腕がわたしのからだに回された。
 アンドレの座っている椅子は長椅子じゃない。一人がけの椅子だからわたしはお姉ちゃまにしていたように寝そべる訳にはいかなかった。アンドレの膝の上に腰掛けた恰好で彼の胸に頭を付けた。
「一本だけにしておけよ」
「もちろん」
 扉の閉まる音がした。
「やれやれ」
 耳元でアンドレの声がした。部屋の中はしんと静かになった。アンドレの腕はわたしの頭を支えている。わたしは彼に顔を見られないように彼の胸に顔を押し当てた。
 さっきとは違う匂いがする。オスカルお姉ちゃまとは違う男の人の匂い。でもお父様ともおじいちゃまとも違う。
 アンドレの手に力が入りからだが小さく揺れた。彼が椅子の背に寄りかかったのと胸の動きで息を吐いたのがわかった。アンドレはきっとオスカルお姉ちゃまが出て行った扉を見ているわ。
 アンドレの指が髪の中に入ってくる。そっと髪を撫でるように動かす。オスカルお姉ちゃまもずっと髪を撫でていてくれたけれどアンドレのは違うわ。腕で頭を支えながら指が髪の中に入ってくるの。それを無意識に動かしているみたいだけれどそれがとっても気持がいいの。
 うっとりしていたら突然、抱きしめられからだが浮いた。またどこかに連れられるのかと思ったが違った。アンドレが足を組みなおしたようだ。それと同時に胸に付けていた頭がそこから離れ閉じた目にまぶしさを感じた。
 目を閉じていたけれど彼がわたしを見ているのがわかった。わたしは起きていることが知られないように頭を動かし彼の胸に顔を向けた。
 扉の開く音がした。
「アンドレ」
 オスカルお姉ちゃまだわ。
「せっかくのワインだがお前のように気の利いたものを添えることはできない。いいな」
 テーブルに何かが置かれる。
「これだけで充分さ。かしてみろ」
「ル・ルーが起きるぞ。私がやる」
 オスカルお姉ちゃまがワインの栓を開けているようだ。これはいつもアンドレの仕事。食事の時の彼の手つきをわたしは思い出した。
 大丈夫? オスカルお姉ちゃま、開けられる? だが、次の瞬間微かな香りがした。ああ、ロマネ・コンティ、幻のワイン。
 アンドレの腕に再び力が入りわたしの頭は強く彼の胸に押し付けられた。彼が身を乗り出したのだ。
「お前、年代を見て持ってきたのか?」
「いや」
「この年の葡萄の出来は最高だった」
「では、ロマネ・コンティの中でも最高の味が楽しめるというわけか」
「旦那様もこれを楽しみにしていたかもしれない」
「かまうものか」
 先とは比べものにならない良い香りがした。アンドレがワインをデカンタに移したのだ。
 たまらないわ、この匂い。アンドレ、アンドレ、わたしにもロマネ・コンティちょうだいな。今度違うもの差し出してごらんなさい、わたしを子供扱いしたこと後悔させてあげるんだから。
 ガラスの触れる軽い音がしてワインをグラスに注ぐ音が聞こえた。
「どうだ、オスカル」
「今まで飲んだ中で最高だ。アンドレ、お前も飲め」
 グラスにワインを注ぐ音。
「オスカル、お前のお陰でこんなワインが飲めるとは思わなかった」
「嬉しいか?」
「罪の意識が痛いほどだ」
「一瞬で洗い流してやる」
 グラスのあわさる音が聞こえ僅かな沈黙が流れた。
「最高だ。この色、この香り、舌触り、こんな逸品は初めてだ」
 オスカルお姉ちゃまの声はうわずっていた。
 そりゃそうでしょうよ、お酒には目のないオスカルお姉ちゃま。ああ、わたしにも一口でいいからちょうだいよ。わたしはお姉ちゃま似だからワインについてはイケル口だと思うのよ。ひどいわ、二人で最高級のワインを情け容赦もなく開けてこっそり飲むなんて。おじいちゃまが聞いたら何と言うかしら。わたしはカーヴのワインの本数が足りなくなった理由を大好きなおじいちゃまに報告する義務があると思うの。おじいちゃまは言ったわ。これは幻のワインだから誰が飲んでも良いという訳ではない。
「あそこの葡萄がこうして味わえるとはコンティ公が勝って良かったな」
 オスカルお姉ちゃま、いい気分でいられるのも今夜だけよ。
「そうかな。どちらも同じさ」
「ポンパドール夫人があそこを買っていたらロマネ・コンティは宮廷から一歩も出なかったぞ」
「逆に負けたからこのボーヌ・ロマネ村のワインは宮廷から締め出されたという訳だ」
「いつの時代も価値あるものを求めて人間は争うのだな」
「価値か。意地の張り合いじゃないのか」
「アンドレ、お前も口が悪いな」
「あそこの畑の価値は認めるが」
「あそこをジャルジェ家で買う事はできなかったのだろうか」
「やめろ、オスカル」
「冗談だ」
 二人共嬉しそうに笑っている。私はアンドレの胸に頭をつけていたから彼の声は胸から直接耳に届いた。息遣いも聞こえたし笑い声は軽い振動と共に響いた。そしてその間彼の指はわたしの髪の中で動いていた。
 その時、瞼の隙間にずっと感じていた光が消えたようになくなった。
「蝋燭が‥」
 部屋はもう一段階暗くなった。
「蝋燭をかえておかなかったからだ。悪かった」
 アンドレの声。蝋燭が燃え尽きてしまったのね。
「持ってくる」
「やめろ、アンドレ。ル・ルーが起きる。今、ここで起きだしてもらってみろ。台無しだぞ」
「でも‥」
「座っていろ」
 オスカルお姉ちゃまが立ち上がったようだ。カーテンを開ける音がする。
「月明かりで飲むのも悪くないだろう」
 蝋燭はすっかり燃え尽きてしまったようだ。
「今夜はゆっくりこれを味わいたいのだ。アンドレ、付き合え」
 部屋に風が入ってきた。寒くはない。それどころか流れるような風はしっとりとしていた。
 オスカルお姉ちゃまが来てテーブルにグラスを置いたようだ。アンドレが注ぎ足すワインの匂いが風に乗る。
「今夜はいい月が出ている。蝋燭が燃え尽きなかったら気がつかなかった」
 オスカルお姉ちゃまの声が遠ざかる。窓辺に寄り月を見ているのだろうか。
「バッカスに魅せられたアルテミスか‥」
 アンドレが独り言のように言った。
「風も十月とは思えない。今まで感じた事もない妙な気分だ」
 目を閉じているせいかいつものオスカルお姉ちゃまではないみたいな声。どうしちゃったのかしら。ワインに酔っぱらったの? オスカルお姉ちゃまらしくない…。
「どうした、オスカル、もう酔ったのか」
 アンドレの声が胸から直接響く。声だけではなかった、心臓の鼓動も、息使いも、取りあげたグラスからワインが彼の喉を流れ落ちる様子も伝わった。
「そうかもしれない。ロマネ・コンティにはどうやら不思議な力があるようだ」
「多分な。お前がこんなに酔うとはな‥」
「ふふ、確かによい気分だ」
 オスカルお姉ちゃま、お姉ちゃまが誰を好きかは知らないけれど、お姉ちゃまは心の底ではアンドレをとっても頼りにしているわ。いつもアンドレ、アンドレ。アンドレでなくてもいい事までアンドレ。気づいてないでしょう。今夜だって月を見ながらの酒盛りに欠かせないのはアンドレ。わたしがお付き合いできないのが残念だわ。もう少ししたらお姉ちゃまの力強い相手になれるのに。
「からだが熱い。風がまとわりついてくる。アンドレ、お前は何ともないか?」
 オスカルお姉ちゃまが来て椅子に座ったようだ。乱暴にからだを投げ出すような振動を感じた。それと同時にお姉ちゃまが大きく息を吐く音が聞こえた。
「酒より月に魅せられているよ」
 しばらく沈黙があった。風に微かに薔薇の匂いが混じった。これはオスカルお姉ちゃまの匂い。お姉ちゃまが髪をかき上げたりするとそんな匂いがするのよ。オスカルお姉ちゃまの吐く息が大きく聞こえる。
「こうして見ると本当に可愛いのにな」
 心臓が鳴った。オスカルお姉ちゃま、わたしを見ている?
 わたしのおでこに指が当てられるのを感じた。わたしは嫌がるようにアンドレの胸に顔を向けた。
「まだ、子供だ」
 ひどいわ、アンドレ。
「こいつは寝ている時が一番かわいい」
 オスカルお姉ちゃままで!
 その時、突然からだが持ち上がるのを感じ、わたしはびっくりしてアンドレの胸にしがみついた。
「どうした、アンドレ」
「ル・ルーを寝かしてこよう。このままじゃかわいそうだ」
「そうだな」
 わたしはアンドレに抱かれて部屋を出た。扉はオスカルお姉ちゃまが開けてくれた。
「静かに‥」
 廊下を通り入った部屋は暗かった。アンドレはわたしをそっとベッドの上に降ろした。
「おやすみ、ル・ルー」
 オスカルお姉ちゃまがおでこにキスしてくれた。アンドレの手が髪をなで上掛けをかけてくれるのがわかる。
「アンドレ」
 暗がりの中でオスカルお姉ちゃまの声が聞こえた。部屋の出口あたりでアンドレを呼んでいる。押し殺したように囁く声でわたしは何故か胸が鳴った。
「今行く」
 アンドレの声も違って聞こえた。
「まだ美酒は半分以上残っている。夜も長い」
 オスカルお姉ちゃまが暗闇の中で笑う声が聞こえた。わたしは目を開けた。廊下に明りが灯っていて扉の前に二人の影が見えた。その影が重なり光の中で揺れたかと思うと扉はそっと閉められた。

 その後、二人がどうなったかですって? 知るもんですか! だってわたしはあの後すぐに寝てしまったのですもの!



Fin



付記

 世界最高のワインとしてその名を知られるロマネ・コンティ。
 ポンパドール夫人とコンティ公が所有権争いをしコンティ公が手中に収めたことからこの名が付いたといわれています。
 ブルゴーニュ地方の小さな村、ロマネ・コンティを生み出す畑はわずか1.8ヘクタール。恵まれた土壌と太陽の恵みを一身に受ける理想的な傾斜。その畑から取れる美酒を題材に書いてみました。
(出典:インターネットサイト)



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