2006 3/21

白の時代



 王太子妃殿下主催の園遊会はいつも小規模であったが、優しい愛らしさに満ちていた。アントワネット妃殿下は国王陛下や王太子殿下の園遊会にもお出になるが、ご自身が催される会にはことのほか気を配られる。一人一人と話ができる人数に抑えられた会は、庭園の中でも特に妃殿下気に入りの場所が選ばれる。
 アントワネットの支度が済むまでオスカルは庭を見て回った。警備の手は抜かりなく充分に入っているか。参列者の顔ぶれはどうか。それを確かめておくことが務めだった。春はまだ浅いが、日ざしの降り注ぐ暖かい日だった。一つ一つ確かめるように移動するオスカルの視線は、綺麗に刈った植え込みの向こうに吸い寄せられた。
 背の高い一人の男がこちらに背を向け立っている。見慣れた庭園の光景と行き交う人々。いつもと変らぬ風景の中で一瞬にして目に入ってくる人影。顔を見なくとも、結んだ髪や高価そうだが品のある趣味の良い服装の肩を見るだけで誰だか分かってしまう。
 彼は誰かと話をしていた。一体誰と‥ オスカルは距離を置きながら、回り込んでみた。向こう側に大きな羽飾りの帽子を被ったヴァレリー侯爵夫人が見えた。侯爵夫人は満面の笑みを浮かべながら正面に立つ男を見上げている。声は聞こえなかったが上気した顔はひどく楽しそうだった。
 ヴァレリー爵夫人は肩をすくめてみたり、男の腕に手をかけたりしながら話をしていた。彼女が頭を動かすたびに耳に飾ったダイヤが日の光にきらめいて輝くのが見えた。
 見つめる視線に気づく様子もなく侯爵夫人は胸飾りの中から何かを取り出すと、それを彼の手に押しつけた。一枚の封書だった。狭いところに押し込められていた様子のそれは微かに曲がっていた。ヴァレリー夫人は扇を広げ、内密の話でもするように彼と自分の顔の間にそれを立てた。二人の顔は見えない。だが扇の下の空間では彼女の手が、彼の手の中に封書を捻じ込むのが見て取れた。
 見るつもりはなかった。オスカルは不必要に見てしまったことを後悔した。早くここを立ち去らなければ… 急いで歩を踏み出したが、何かの気配に気づいたらしいヴァレリー侯爵夫人の声が追いかけてきた。
「まあ、オスカル、ごきげんよう」
 振り返るとヴァレリー爵夫人が笑みをたたえて、こちらにやってくるのが見えた。同時に上着のポケットに手を入れる彼も見えた。侯爵夫人は悪びれる様子もなくやってくると、手をオスカルに向かって差し上げた。オスカルは歩み寄り、女の手に口づけた。
「ごきげんいかがですか、ヴァレリー侯夫人」
 礼を失してはならない。どんな時でも儀礼はきちんと尽くすのがフランス王太子妃付き近衛仕官の勤めである。
「オスカル、大変だったわね。身体の方はもういいの?」
 問い掛ける声はひどく優しかったが、オスカルは顔が強張るのを感じた。
「はい。もうすっかり」
 平静を装い答えたが、思い出すと心が痛んだ。ヴァレリー候夫人はアントワネットさまを乗せた馬が暴走した時の事を言っているのだ。宮廷中の誰もが知っている重大事件。だがそれに触れられる事はひどく辛い事であった。オスカルは唇を強く引き結んだ。
「あの時の貴女は立派でしたよ。あそこにいた誰もが感動しました」
 いかに感動しやすいかが貴婦人の心栄えを表わしているとでも言うように、彼女は胸に手をやり、大きな息を漏らした。
「そして貴方も…」
 ヴァレリー候夫人は彼の方に顔を向けると恍惚とした笑みを浮かべた。オスカルは顔を反対側に向けながらも、横目で二人の表情を探らずにはいられなかった。彼は目を伏せていた。
「オスカル、ではまた後ほど‥ 遊園会で会いましょう」
 ヴァレリー候夫人は女優が舞台を去る時のような仕草で後に下がり、背を向けた。オスカルは侯爵夫人の後姿を見送ってから、見るともなく彼の上着に目をやり、また後悔した。見るつもりなどないのに何故こうも… 自分の行動に腹が立つ。
「オスカル」
 彼は困ったように小さく息をつくと上着のポケットから手を引き出した。
「こういった物はどう扱えば良いのだ?」
 困り顔の彼にオスカルは言った。
「どうとは? お前の好きにすれば良い。ここはフランス宮廷だ。誰もが自由に恋愛できる。フェルゼン、お前はフランスの社交術を得に来たのだろう。どうぞ存分に楽しまれるが良い」
 北欧から来た貴公子の顔が一瞬にして曇るのがわかった。彼の傷ついたような表情を見るとなぜか小気味よかった。オスカルは続けた。
「躊躇うことはない。合意の上ならご夫人の胸当てを引き剥がしても良いのだ。王太子妃殿下の仮面を剥がすことに比べたら何でもない」
 たたみ掛けるように言いながら、オスカルは自分が苛ついているのが分かった。彼は恩人だった。そんな彼になぜこのように辛辣な言葉を浴びせるのだろう。
「オスカル…」
 フェルゼンは何か言いた気に瞳を真っ直ぐに向けた。オスカルは目を反らした。彼の瞳はあまりにも澄んでいた。
「そういうことだ。わかったか。そんなものは挨拶だ。ただ無粋な真似をすると笑われる」
 急いで背を向けた。これ以上いたら彼に何と言ってしまうかわからなかった。



 アントワネットさまのドレスは春を迎えるのに相応しい明るい色だった。ここに集う誰よりも軽やかで上品な足取りで歩かれる。オスカルは女官長の後に一定の距離を保ちながら付き従い、アントワネットの様子をうかがった。アントワネットさまは最近特に大人っぽくなった。人々に平等に声をかけ、微笑みかける若い次期フランス女王。王太子妃としての責務。長い年月をかけて培ってきたもの… だがそれが一瞬にして崩れ去るのをまた目撃しなければならない。
「フェルゼン伯爵」
 彼の姿が見えると他には何も見えないといった様子で真っ先に駆け寄られる。それはかつて王太子妃付きの近衛仕官を見ると真っ先に駆け寄ってきた姿と似ていた。形式的な挨拶はもう終わり、彼女は身体中でそう言っていた。
「椅子を」
 妃殿下は場所をお決めになる。差し出される椅子に座り、彼に椅子をすすめる。オスカルはアントワネットの後に立ち、若い伯爵を観察した。彼は胸に手をあて一礼する。王太子妃殿下の前に場所を頂く名誉に対し感謝を示す動作。それは充分洗練されていながら、形式に走ったところがない。彼の動作には暖かい親しみが込められている。それはいつも感じる事だった。
 頭を垂れていた彼の顔がゆっくりと上げられる。落ち着いた眼差しと、控えめでありながら誰をも魅了する品のある微笑み。つい数ヶ月前に宮廷に来たと思えないほどその姿は溶け込んでいる。故国での高貴な身分を感じさせる仕草が外国の宮廷で話題に上る。完璧なフランス語を話しながら、どこか異国を感じさせる彼。彼は貴婦人達の間で噂になる自分を知っているのだろうか。
 アントワネット妃殿下が彼に話し掛ける。それを合図として、招待客はそれぞれ談笑にふけっていった。



「アンドレ!」
 帰るなりいつものように大声で呼んでから、彼がいないことに気づく。そうだった… オスカルは軍服の襟元に手をやりそこを緩めた。何度同じ事を繰り返しただろう。いつまで続くか分からない不在を確認する度にひどい脱力感に襲われた。階段の手すりに掛けた腕さえひどく重い。引きずるように身体を二階まで運び、部屋の扉を開ける。
「お帰りなさいませ」
 母付きの若い侍女がオスカルの部屋に顔を出す。アンドレがいなくなってから増えた頭数だ。オスカルは剣を外すと手袋と共にそれを手渡した。軍服を脱ぐのを手伝おうとする手を制し、椅子に腰を降ろす。
「お疲れですか? ただいまショコラをお持ちします」
 若い侍女は顔を赤らめると膝を折りそう言った。ショコラ… それを持ってくるのはアンドレの仕事だ。ぼんやりと思いながらオスカルは部屋を出て行く侍女の背中を見つめた。今日はひどく疲れた。椅子の背もたれに身体を預け、天井を見上げる。何をしたわけではないのにひどく疲れた。目を閉じると浮ぶ園遊会の光景。明るい日差しの中の美しい二人… その姿は反芻するごとに濃くなっていくようだ。オスカルは軍服の胸を掴み、息を吐いた。苦しかった。
 アンドレ… 呼びかけるつもりはないのに声が漏れた。

 しばらくして聞こえる扉を叩く音。五感に刻み付けられた記憶はたちまち動き出し、慣れ親しんだ声を聞こうとする。だが耳が捉えたのはもう一度控えめに扉を叩く音だった。オスカルは目を開け、身体を起こした。
「入れ」
 声をかけるといつものように暖かい匂いがやってきた。差し出されるカップは愛用品だ。だがそれを持ってくる手はいつもと違う。
「ありがとう」
 使用人を労いながら、微かに感じる違和感に苛立ちを覚える。
「もういいよ。一人になりたいのだ」
 一口飲んでそう言った。味もどこか違う。


 侍女は部屋を出て行く。扉の閉まる軽い音を背に、オスカルは立ち上がり軍服を脱いだ。部屋着に着替え部屋の奥へと続く寝室に入る。
 身体がだるい。下腹に感じる鈍い痛み。それは月の物が近いことを知らせていた。
 オスカルは寝台に横になり、痛む下腹に手を当てた。毎月規則正しくやってくるこのだるさ、腰の痛み… 女に生まれた煩わしさとこれからも付き合っていかねばならぬ。寝台の上で反転したせいか、髪が乱れ、顔に絡みつく。髪の間から天井を眺めながらオスカルは思い出していた。

 ―――オスカル ―――オスカル
 呼ばれて目を開けた時、宮廷にいるのかと思った。なぜなら真っ先に目に入ったのが、アンドレと新参の外国人だったからだ。身体を動かそうとして激痛が走った。一体自分はどこにいて、何を着ているのか。咄嗟に胸に手をやり、いつもと同じ感触に安堵しながら、それでも胸元をかき合わせた。
 乳母の声と顔でここが自分の寝台の上だとようやく気がついた。見慣れた天井でありながら自分の寝室と思えなかったのは、寝台のすぐ脇に男がいたことだった。乳母がたとえ誰であろうと寝室に男を入れるはずはないからだ。
「おまえの為ではないぞ。ばあやの為だ。この年でたった一人の孫に先立たれてみろ。ジャルジェ家は葬式を二つ出さねばならんからな」
 皆に心配かけまいとするつもりか、それとも何かをごまかすためか、饒舌になる自分。だが軽口にはそれなりの効き目があった。青ざめた乳母の顔に赤味が差していく。安堵した乳母は思い出したように世話を焼き始めた。
「からだのほうは打ち身がひどうございますから、しばらく安静に… 湿布を取り換えておきましょう」
 言ってから乳母は初めて気がついたように横を見た。
「アンドレ、フェルゼンさまと外に出ておくれ」
 寝室に男がいる。それは乳母がどれほど取り乱していたかを証明するものだろう。気を失った友人を心配する伯爵を押しとどめることができなかったからといって、乳母を責めるつもりはない。
 パリのオペラ座で剣を突きつけた近衛隊員をすっかり男だと思っていた伯爵の何気ない一言だった。
「なんだい、気取っているんだな。男同士でも身体は見せられないというわけか。王族でもあるまいに!」
 その一言は乳母を完全に正気に戻した。正気に戻った乳母が不埒物をいつもの勢いで追いだしていく。それは特に、なんというほどの事ではなかったはずだ。今までに何度も出くわした出来事だった。大切なお嬢様を男扱いする失礼な輩に一撃をくわせるのは乳母の日常だった。
 耳に残る彼の声。

 ――からだは見せられない…

 一人になると時々その声を思い出した。そしてその度に心が疼き、苛立った。何だろう。怒りだろうか、それとも‥ 説明のできない感情だった。下腹と腰に感じる鈍い痛みを持て余し、オスカルは絹のシーツを握りしめた。




「シュザンヌ」
 国王主催の音楽会の警備から帰るなりオスカルはジャルジェ家古参の侍女であるシュザンヌを呼んだ。シュザンヌは母が結婚する前から母に仕えていた侍女で、母の信任がことのほか厚い。女中頭で乳母であるマロン・グラッセとの息も合い、ほぼこの二人でジャルジェ家を取り仕切っている。
「頼みたいことがあるのだ。おまえアンドレの居場所を知っているな? 教えて欲しい」
 シュザンヌを椅子に座らせ、向かい合い、正面からはっきりと告げた。アンドレはアントワネットさまの馬を暴走させた罪でジャルジェ家から謹慎という名の暇をもらっていた。王族に怪我を負わせた。これは死刑にも価することだった。
「さあ、私は知りません」
 そうくると思っていた。オスカルはシュザンヌを真っ直ぐに見つめ言った。
「父上がアンドレを謹慎させていることは知っている。何も呼び戻そうとは思っていない。ただアンドレの無事を知り、居場所を知りたいだけだ」
「オスカルさま、私も本当に知らないのです。多分奥さまも旦那さまもご存知ないと思います。アンドレの居場所を知っているのはマロン・グラッセさんだけです」
 シュザンヌは母の為ならどんな嘘も付きそうだが、それ以外は正直であるに違いない。
「オスカルさま、アンドレの居場所は誰も知らないのが一番安全と旦那さまはお考えのようです。全てマロン・グラッセさんがお預かりしているようですわ」
 オスカルは唇を噛んだ。アンドレは事故のあった翌日に消えるように姿を消した。まるでさらわれたかのようだった。将軍である父の命令であることは確かだった。

「ばあやからアンドレに暇が欲しいと要望があった。アンドレに良い嫁が来そうだからとな」
 父はそう言った。それが拉致を隠すための方便だということは分かっていた。問いかけようとするオスカルに父はきっぱりと言った。
「オスカル、アンドレの身を心配するのなら、今後一切それに触れるでない。それがアンドレを守る事になる。あと何年かしたら、きっと会えるに違いない。それまで待つのだ」
 乳母にはアンドレについて出来る限り問いただした。だがその口はいつもと変らずポンポンと物を言うのに、肝心なことになるとはぐらかしてばかりだった。
「あの子はオスカルさまに情けをかけてもらうほどの者ではありません。でも良い嫁がもらえたら、その時は喜んでやってくださいまし」


「オスカルさま、アンドレは間もなく帰ってきますよ。マロン・グラッセさんはアンドレを一人立ちさせたいみたいですが、私は夫婦でお屋敷に世話になるのも良いと思っています。きっと気立ての良い…」
 オスカルはシュザンヌの言葉を遮るように立ち上がった。シュザンヌは本当にアンドレが結婚の為に姿を消したと思っているのだろうか。だが父の言う事も分かる。今ジャルジェ家はアンドレを匿っているのだ。一時許されただけで、今後何が起こるかはわからない。アントワネットさまが体調を崩したとしたら… そんなは考えたくはなかったが、そのような事が無くとも、国王の虫の居所の状態によっては、いつ『あの不埒者を引っ立て、首を撥ねろ!』となるか分からない。

 アンドレ… オスカルは再び椅子に座り、両の肘をテーブルの上に付き、組んだ手に額を乗せた。アンドレが居ないだけで何もかも調子が狂っていくようだ。今日もショコラは運ばれる。だがそれは半分も減らないうちに冷めていく。アンドレ、おまえは今、何をしている。一人で平気なのか?
 シュザンヌが部屋を出ていく音がした。顔を押しつける手の中に涙が溜まっていく。宮廷勤めがこれほど辛いと思ったことはない。ショコラが甘ければ甘いほど、何故か切なくなる。欲しいのはショコラではない。それを飲みながらアンドレと交わす会話が欲しいのだ。アンドレと今日あった事を話すひと時。二人で持つ共通の話題。こんな些細なことが、これほど大きな物であったとは…
 アンドレはどこかで誰かと一緒に居るのだろうか。結婚も本当のことかもしれない。自分だけがアンドレの身に何かあってはと想像して苦しんでいる。アントワネットさまは快活で、お元気で、宮廷は平和そのものだ。アンドレは幸せで、父上もばあやも安心している。そうに違いない。
 涙が手の中に溜まっていく。明るく考えようとしてもそれは止まらなかった。



「オスカル、貴女恋をしたことがあって?」
 午後のひと時、アントワネットさまの部屋だった。
「いいえ」
 あらかじめ用意されたように答えを呟きながら、オスカルは目の前の次期フランス王妃を見つめた。
「恋とはどんなものかしらね」
 次期フランス王妃は袖のレースをいじりながら独り言のように言った。
「アントワネットさま」
 オスカルの声に王太子妃は顔を上げた。
「貴女の言いたいことはわかります。私は夫のある身」
 きっぱりと言いながら、薔薇色の頬には赤味が差していく。
「でもね、時々考えるのよ。恋ってどんなものかしらと…」
 未来のフランス王妃はまた袖のレースをいじり出した。日差しの降り注ぐ窓辺にいる王太子妃殿下。今日と同じ質問は今までに何度もあった。十四歳で輿入れしたアントワネットさまの回りは大人ばかり。彼女は同じ年頃の友人に飢えているように感じた。
 恋とはこんなことと聞いています。まるで御伽話のように恋を語ったこともあった。敵国に嫁いだ妃殿下を慰めようとオスカルは話をした。
 だが今日の質問は…
 ほんの数ヶ月の間にいっそう美しくなったアントワネットさま… 見つめるオスカルの胸の鼓動が早くなった。王太子妃殿下は恋をしているのではないか。それは容易に想像できることであった。そして、その想いが寄せられている相手も…
「オスカル、午後の音楽の会には来てちょうだいね。私がハープを弾きますから」
 音楽会に呼ばれた人の顔ぶれがオスカルの脳裏に浮んだ。



「…アントワネットさまは王家に次ぐ強い権力を持っている公爵家の方々とのお付き合いさえ無視なさって、それほど地位もない若い気さくな人達ばかりお側に集めて‥ ほら、あのフェルゼンとかいうスウェーデン人の若い男にはちょっと気になるくらいの友情をお示しになって」
 ノアイユ伯夫人の声だった。『フェルゼン』 その一言は廊下を行くオスカルの足を止めた。オスカルは扉の内側から聞こえてくる声に聞き耳を立てた。
「わっはっは。それは考えすぎというものでしょう。ノアイユ伯夫人」
「まあメルシー伯のんきなことを!」
 オスカルが御守りするべき王太子妃殿下は、午後の行事を全て欠席し、部屋に引き上げたばかりだった。アントワネットの謁見時間は日に日に短くなり、それに従い王太子妃付きの近衛仕官であるオスカルの体が空くこともしばしばだった。
『恋とはどんなものかしらね』
 アントワネットの言葉が耳にこだまする。恋の告白のように彼女は言った。
 これ以上ノアイユ伯夫人がなんと言うか聞きたくはなかった。オスカルは扉を離れた。
 貴族なら当たり前とされる自由な恋愛もフランス王太子妃には許されてはいない。不安だった。最初はごく近しい人だけにしか分からない兆候も、やがて誰もが知る事になるのだろうか。
 オスカルは早足に廊下を端まで歩くと柱の角を覗き込んだ。時間の空いた午後に母の様子を見たいと思った。アントワネット付きの侍女である母は家に帰ることが殆どない。デュバリー夫人の動向も気になる。時々母の無事を確かめずにはいられなかった。
 母の控え室前の廊下で、見知ったドレスを見ることができ、オスカルは安堵の息を漏らした。母の仕事の邪魔をするつもりはないし、宮廷では親子ではない。オスカルは廊下を引き返した。
「オスカル」
 背後から呼ぶ声は懐かしい声だった。振り返ると母が立っていた。
「久しぶりですね。時間があるのなら、お茶でも飲んでいきませんか」


 母はいつも優しく、微笑むだけで、或いは髪を撫でて抱きしめてくれるだけで、心を癒してくれた。言葉は少なくとも、向かい合い、午後のひと時を過ごすだけで原因の分からぬ苛立ちは静まっていくようだった。
 いつも母のようになりたいと思った。たおやかであっても優しい強さを持つ母。何事にも揺るがぬ信念を母は持っていた。父と母は愛し合っている。それは貴族社会の中にあっては特異ともされる事象だった。
『ジャルジェ将軍は無粋なほど奥方を愛していらっしゃる』
『ジャルジェ夫人は平民のおかみさんも叶わないくらい、一人の男に入れ込んでいらっしゃる』
 数々の揶揄を聞いてきた。貴族でありながら恋人を作らないと言う事は、自分に魅力がないと公言しているようなものだった。だが自分は、それがそれほど非難される事とも、笑われる事とも思ってはいない。もちろん自由な恋愛を否定するつもりはない。遊びであっても、本気であっても、自分の魅力を確認するた為の作業であっても、暇つぶしであっても、それは自由だ。
「オスカル、何か心配事でもあるの?」
 ただその自由がフランス王妃には許されてはいない。
「オスカル?」
 母の瞳が見つめてくる。母と向かい合っていながら、苛立ちは心を蝕むかのように這い上がってくる。
「いいえ」
 母には心が見えるのであろうか。茶のカップを置きながら、どこか疎外感を感じる毎日が不安なのだと気がついた。
 母の眼差しは優しく注がれている。
「アンドレが…」
 口から出たのは思いもかけぬ言葉だった。だがそれが最も不安な事で、苛立ちの原因なのだ。そうだ、アンドレがいないのだ。声にするだけで涙が出そうだった。
「オスカル、心配いりません。アンドレはパリにいます。ばあやが、きちんと見ています。でも貴女が訪ねて行ってはいけません。アンドレの為を思うなら我慢なさい。わかりますね」
 優しく諭す声。母の手が手に触れた。母の様子を見たいと思ったはずだが、自分は母に慰められ安心したかったのだと分かった。優しさは人の心を脆くする。
「はい」
 下を見ただけで涙が零れ落ちた。


 狩りの途中の国王を襲った病は天然痘だった。国王の顔に浮き出た紅い斑点は宮廷を恐怖の渦の中に叩き落とした。王位継承者の王太子とアントワネットは国王の病室から最も遠い部屋に待機させられた。
「オスカル!」
 アントワネットは部屋に入ってきた近衛仕官を見て、それがたった一つのすがりつくべき者のように白い軍服を抱きしめた。
「怖いのよ! オスカル。怖くてたまらないの。お願いだからずっとここに居てちょうだい」
 見上げるアントワネットの目には涙が溜まっていた。
「大丈夫でございます、アントワネットさま。国王陛下はきっと病を乗り越えてくださいます」
 震える背中を抱きながら、オスカルは同じ年の友人としてアントワネットを励まそうとした。
「オスカル、今日はここに泊まってちょうだい。私が眠るまで側にいてください」
 時代が細い肩の上に乗るのだろうか。予感がした。まだ二十歳にも満たない王太子妃殿下はまもなくフランス王妃になる。
「はい。一晩でも二晩でもついております。どうぞご安心を」
 アントワネットを寝台に横たわらせ、その横に腰を降ろし、オスカルは小さな白い手を握りしめた。
「オスカル…」
 涙に濡れた頬を見せながらアントワネットは言った。
「これからもずっとお友達でいてくださいね」


 国王陛下は病に打ち勝つことができなかった。強靭な体力は最後まで抵抗をみせたが、病は国王の体を膨れ上がらせ、見分けもつかないほどに腐らせた。
 旧勢力はこの世と宮廷から追放され、新たな国王と王妃が誕生した。


 部屋を出てホールに降りようとした時だった。一人の人影が目に這入った。それは待ち焦がれた懐かしい姿だった。オスカルは飛ぶように階段を降りていった。
「アンドレ!」
 慌てた為か階段の途中でつまずきそうになった。足より早く心が降りたがっている。
「帰ってきたのだな。よく帰ってくれた!」
 オスカルはアンドレの前に駆け寄ると手を握り締めた。この姿を待っていた。彼の正面に立ち顔を見上げる。懐かしさに胸が詰まった。アンドレは疲れたような顔をして佇んでいた。咎を負う事に対して疲れ果ててしまったのだろうか。オスカルはアンドレの頬に手をやった。
「アンドレ、今までどこにいた? 何をしていた?」
 もう何の心配もいらない。そう言ってやりたかった。姿を見るだけで胸が熱くなる。自分が今まで何を待っていて、何が欲しかったか、はっきりした。
「アンドレ、もうどこへも行かないでくれ」
 懐かしい身体を抱き寄せた。どこへも行かせない。私がおまえを守る。おまえをもうどこへも行かせない。腕に力を込めオスカルは愛しい身体を抱いた。


 部屋にショコラを二つ運ばせ、オスカルはアンドレと向かい合った。
「すまなかった、アンドレ、苦労をかけたな。父上にはおまえの謹慎を解くように何度も言ったのだが」
 二人で部屋にいる。当たり前の日常が戻ってくれた事がこれほど嬉しいとは… いつになく溌剌をした気分だった。だがアンドレは椅子に座り、両肘を膝の上に乗せ、視線を下に落としたままだった。いくらか痩せた顔は精悍さを増したようで、より男らしい顔付きになっていた。呼びかけようとしてオスカルは口をつぐんだ。視線を下に置き、何か言いたそうに躊躇っている様子のアンドレに今まで感じた事のない男を感じたからだ。いつもなら「どうした?」と気軽に問い掛けられるのに…
 疲れているのだ。休ませた方が良い。オスカルが思った時だった。
「旦那さまに言われたからじゃない。俺がここを出たかったんだ」
 下を向いたままアンドレが言った。突き放すような言い方だった。
「なんだって?」
 アンドレの口から出た言葉は意外だったが、それ以上に声や言い方にも変化があった。何がと、はっきり言えないが、彼は大人になった。そう感じさせる変化だった。
「旦那さまは俺にどうしろとも言ってない。俺はただ…」
 アンドレはそこで一息継ぎ、付け加えるように言い足した。
「暇が欲しかったのだ」
「…なぜだ」
 口から出た声は震えていた。アンドレのショコラには手がついていない。オスカルの頭に閃くものがあった。
「やはり‥結婚‥か?」
 言葉を発すると同時にアンドレが大きく動き、顔を上た。見開かれた瞳がオスカルを見つめる。そこには驚きとも脅えともつかないものが映し出されていた。
「違う」
 短く息を吐きながらアンドレは言った。目は真っ直ぐオスカルに向けられている。見つめ合うほどにそこから脅えの色は去り、彼の瞳には強い光だけが残った。見つめらるだけでオスカルの心臓は音を立てた。これほど彼の眼差しは鋭かっただろうか。前髪が伸びて額にかかっている。アンドレは言葉を言いたそうにしていたが、意思を込めた目でオスカルを見つめるだけだった。
 口では否定しているが、瞳ははっきり何かを語っていた。オスカルは大急ぎで考えを巡らせた。シュザンヌも父上もばあやもアンドレが結婚すると言っていた。違うと勝手に思い込んでいたのは自分だ。
 あれほど嬉しかったアンドレの帰宅だったが、どこか寒々とした空気が吹き込んできたようでオスカルは身震いした。目の前にいるアンドレが遠くに、遠くに、行ってしまったように感じた。
「おまえ… 誰か心に決めた人がいるのではないか?」
 なぜそんなことを聞く。それを自分は聞きたいのか。自分の心に問いながら、それでも聞かずにはいられなかった。
「俺は卑怯な人間だ」
 半ば独り言のように言うと再びアンドレは視線を下に落とした。謹慎もあったかもしれないが、それだけでないことをオスカルは確信した。目の前に組んだ男の両手が見えた。それはところどころ油の沁みが付いて汚れていたが、逞しい男の手だった。しばらく見ないうちにアンドレはこうも変った。
「心に決めた女がいる。俺は一生その為に生きていく」
 目を上げ、今度は、はっきりとアンドレは言った。
 風に吹かれ、地面に叩きつけられたように感じた。それなら何故帰ってきた! 大声でなじりたかった。オスカルは音を立て椅子から立ち上がると、部屋を横切り鏡の前に立った。
「部屋に行って休め」
 明日この事について考えよう。アンドレの気持ちと彼の身の振り方を考えてやるのだ。オスカルの心臓が大きな音を立て鳴った。何かが側で震えていると思ったら、それは握り締めた自分の手だった。
 もう自分とアンドレの間に親しい時間はないのかもしれない。何もかもが自分の周囲から去っていく。誰もが大人になり、恋をし、人を愛していく。周囲が真っ白な空間に放りこまれたようだった。寂しさだろうか。誰でも人を愛する。そんな当たり前のことが、なぜこれほどまでに寂しいのだろうか。
 早く部屋を出て行け、アンドレ。オスカルは両の手が白くなるほど握りしめた。これ以上時間が経つと叫び出してしまいそうだった。
 こらえ切れず顔を上げると、目の前の鏡に自分の顔が映っていた。頬が気味悪いくらい上気し、目は潤んでいる。私はなぜこれほど興奮しているのだ。見たくないこんな顔。鏡から顔を背けた瞬間だった。突然、強い力で腕をつかまれ、引きずられた。無理やり振り向かされたと思うと、あっと言う間に強い力で抱きすくめられていた。
 突然の力は息ができないほどだった。
「俺は…」
 一言苦しそうに言ったきり、アンドレは腕の力を強くする。押し付けられたアンドレの胸からからは今まで嗅いだことのない匂いがした。
「…アンドレ」
 オスカルはアンドレの胸に顔をつけまま、一言いって押し黙った。突然の告白にひどく打ちひしがれたせいか、抵抗する気力もなかった。
「オスカル、俺はこの家を出ようとした。だがもうそんな事はしない。一生ここにいる。おまえの側にいる」
 強くかき抱く腕、頭を締め付ける腕、普段なら撥ねのけただろう。だが今はそれが心地よかった。心が哀しいからだろうか。アンドレにいて欲しかった。待ち焦がれていた存在だった。難しいことを考えるのはよそう。明日考えなければならないとしても、今はこうしていたい。
 胸から直接響くアンドレの声を聞きながらオスカルは思った。心に決めた女がいながら、アンドレはここにいると言った。彼の思いが通じない相手なのだろうか。アンドレは辛い恋をしているのだろうか。
 髪の中に入る指は髪を絡め取るように動く。
「アンドレ、おまえは私が辛い時が分かるのか?」
 アンドレの胸から顔を離し問うてみた。苦しい時、辛い時、何度も慰められてきた。こうして抱かれ慰撫されたこともある。
 驚いたような黒い瞳が目の前にあった。その目は光を遮る時のように細く歪んだが、再び見開かれ、近づいた。
「ああ、わかる」
 それだけ言うとアンドレはもう一度オスカルを抱いた。オスカルの目に涙が溢れた。アンドレは帰ってくれた。今は安心するのだ。これからどれほど辛いことが起きようとも、アンドレがいればきっと乗り越えていかれる。
 アンドレ… おまえがいないと私は生きていかれない。これからもずっと側にいてくれ。
 心の中で呟きながらオスカルはアンドレの胸にくちづけた。



Fin




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